夏休みの予定表

娘の小学校生活の最初の夏休みが明日から始まります。今日は終業式。昨日、学校においてあった音楽袋を持って帰り、家でママと一緒に、夏休みの一日の過ごし方について、予定表を書く。残業で帰ったパパは、壁に貼ってある娘の予定表を見てすっかり昇天。

自分で自分の予定表を書く、というのがすごく楽しかった記憶は、私にもあります。真っ白い一日を、誰に与えられるでもない、自分で考える計画で埋めていく。横に長い棒グラフに時刻の刻みを入れて、朝何時起床、歯磨き、朝食、朝のお散歩、お勉強…

人から与えられた時間割ではなくて、自分で一日の行動を決めていく楽しみ…と、ここまで書いて、ふと、先日の日記に書いた、「幸せってなんだろう」という話を思い出しました。日本人の多くが、多すぎる選択肢の前で立ちすくんでしまって、自分で選択することを放棄してしまって、人から与えられた人生に満足している。そういう「幸福」についての話。

シンクロニシティではないけれど、こういう話というのは重なるもの。昨夜、何気なく、昔読んで、本棚においてあった、村上春樹さんの「アンダーグラウンド」をちらちらと眺めていました。そのあとがきを読んでいると、こんな内容が書かれていました。私なりに噛み砕いてしまっているので、かなり、村上さんの文章そのものや、その意図とはずれているかもしれないけど、私の最近の問題意識と微妙にシンクロしていて面白かった。

オウム真理教に対する嫌悪感や、非常に不愉快な気分というのは、その異常性に対する感覚というよりもむしろ、オウム真理教自身が持っている普遍性にあるのじゃないだろうか。我々の日常生活や、我々自身が正常と思っている社会自身が、オウム的な性格を持っていないか。それは何かといえば、麻原という強烈な他者から「物語」を与えられることに幸せを感じる感覚。つまり、自分自身が紡ぎだす物語ではなく、他者から物語を与えられることで満足する感覚。それがどれほどグロテスクで、非人間的な物語であったとしても、自分から物語を紡ぎだす力のない人々にとっては、「物語を与えられることそのものが幸福である」。では、小説家としての自分は、麻原が生み出した物語以上の力を持った物語を、人々に与えることができるのだろうか。

もちろん、自分の生き方は自分で決めるべき、なんてきれいごとを言ってみても、人間、成長してくると、結局自分自身が生きているのは、他人の支えがあってこそだし、自分自身もそうやって他人を支えなければいけないのだ、という感覚が出てきます。そういう意味では、大人になるにつれて、自分自身の一日を自分だけの思いで作り上げていくことができなくなってくるのは自然なこと。でも、最近の自分の一日を顧みた時、本当にそれは、「他者と支えあい、助け合うための一日」という意味での、自分の自由にならない一日だろうか。単純に、「意味や意義を考える必要のない、他者が作ってくれた既製品の一日」になっていないだろうか。自分なりの一日の「物語」を語ることができるような一日だろうか。

「お散歩もしなきゃいけないし、お勉強もしないといけないし、パパのお見送りもしたいし、ママと一緒に遊びたいし、ピアノのお稽古と、新体操の柔軟体操と…」なんて楽しげに呟きながら、色んなイラスト入りに飾られた予定表にやりたいことを書き込んでいる娘を見ながら、この子の「物語」は、まだ本当に始まったばかりなんだなぁ、と改めて思いました。楽しいこと、わくわくすることが一杯ある、素敵な物語になりますように。