幅を広げること、表現を突き詰めること

蔵しっくこんさぁと終演後、打ち上げを兼ねてみんなで泊まった花巻温泉。音楽談義に夜更けまで語り合ったのですけど、その中で、プロの音楽家の方とお話をするといつも出てくる話があったので、ちょっとここに書き留めておきたいと思います。

ヴァイオリンで参加してくれた漆原さん、メゾのKちゃん、ピアノの児玉さん、みなさん、専門の音楽大学で勉強して、プロの演奏家を目指し、あるいはプロの演奏家として収入を得ている方々。でも、3人は、決して、「クラシック」というジャンルを意識せず、「音楽」という、より広い分野で活動している方々です。でも、「クラシック」という分野を非常に限定的に捉えて、そこから外の音楽に触れようとしない、聞こうとしない「音楽家」の方々も多いんだって。

アメリカ音楽の中でのヴァイオリンって、すごく活躍の場が広いんですよ。クラシックもそうだけど、映画音楽、ディズニーの音楽、カントリー音楽のフィドルまで。クラシック以外の分野でも、いいなぁ、と思うヴァイオリンの音がある。そういうものを拒絶して、『オレはクラシック以外は音楽と認めない』っていう人は、学校にもすごく沢山いるんです。でも、私はそういう音楽も拒絶したくないし、そういう音楽にも魅力があると思う。」漆原さんはそう言いながら、「でも、クラシックという分野の表現をきちんと突き詰めて、その分野の表現がきちんとできた上でないと、幅を広げても中途半端になってしまうと思うんですよ」とおっしゃっていました。「だから、きちんとクラシックの曲を弾けるようになりたいんです。」

同じようなことは歌の世界にも言えるんだけど、歌の世界の場合、クラシック歌手がポップスを歌うことはかなり危険を伴うことだったりします。クラシック歌唱をきちんと突き詰めて、しっかりした自分の表現の「核」というか、結局はフォームだと思うのだけど、それを確立していないと、どっちも中途半端になってしまう。錦織健さんとか、さほどクラシック歌唱が図抜けているわけではない方なのに、クィーンだのミュージカルだのに中途半端に手を出してしまって、肝心のクラシック歌唱のフォームを崩してしまっていた時期があったように思います。一方で、ルネ・フレミングみたいに、ジャズCDを出しても一流、なんて人もいるし、あのグルヴェローヴァだって、オペレッタのCDを出していて、これが実に素晴らしい。

ポップスを歌うと歌が荒れる、といって、クラシック歌唱以外に活動を広げていかない人もいますし、実際、中途半端にポップスに手を出して、なんだか中途半端な歌い手になってしまう人を沢山見ます。確かに、クラシック歌唱とポップス歌唱では相当方法論が違うと思う。でも多分、本当に一流の人は、「クラシック歌唱の時はこの方法論でいけばいい」「ポップス歌唱のときはコレ」という感じで、別々の引き出しをきちんと持っている。そういう引き出しをきちんと持つためには、一つ一つの方法論の間の共通点がどこにあって、差異がどこにあって、どこを切り替えれば対応できるのか、という理解が必要。つまるところは、それぞれの方法論をきちんと自分の中で突き詰めて、自分なりに確立した方法論を持っている人だけが、そういう多層的な活動をしても、どの分野でも一流といえるパフォーマンスを出せるってことなんでしょうか。

あんまり自分の中でもまとまっていないんですけど、一つの方法論を突き詰めようと苦しんでいるときに、他の方法論をちょっと試してみたら、いきなり、悩んでいた問題がクリアになる、なんてこともある気がします。女房に言わせると、「山を登っていくときには、色んな上り道があるわけで、私にはこの道しかない!と一つの道をひたすら登っていくのもありだし、別の道から登って行くのもあり。でも結局、目的地は山頂。」なんだって。本当に山頂に立つことができて見下ろしてみれば、それぞれの道の登り方がきちんと見えてくる。音楽表現の山頂に到達するのには、クラシックという「登り方」が極めてオーソドックスで、かつ危険の少ない上り道の一つなのだ、でも、それはあくまで一つの上り道に過ぎないんだよ、ということなのかもしれないなぁ。