守り人シリーズ読了〜藤沢周平とか池波正太郎がファンタジーを書いたなら〜

上橋菜穂子さんの「獣の奏者」に感動した、という感想を書いたら、ガレリア座のリアル獣の奏者のA乃ちゃん(トランペット吹きの獣医さん)が、守り人シリーズを全巻貸してくれたのです。全七巻、文庫本にして十冊。このリフレッシュ休暇中に一気に読了。日本が世界に誇れるファンタジー小説、なんていう宣伝文句がこっぱずかしくなるような、重厚かつ繊細、多層的でいて揺るがない、骨太の物語世界にどっぷり浸かる。小説を読んでいて、がぁっとカタルシスが来て、キター!という感じになる時に、私の場合、全身にざあっと鳥肌が立っちゃうんだけど、全十冊を読む中で何回鳥肌が立ったことか。

例によって、どの場面が好き、とか、誰が好き、とか言い出したら切りが無いし、世界中で読まれているこの「Moribito」シリーズについては、各種の評論が世の中に溢れるほどあるだろうから、自分の勝手な視点で思ったことを絞って。例によって、読んだことのない方々にはさっぱりわからない記述も頻発するでしょうが、何卒ご容赦のほどを。

未来少年コナンとか、夢見る惑星とか

最終話の「天と地の守り人」読みながら、どこか、「未来少年コナン」を思い出してました。天災と人災の間で、生き延びるための細い道を必死に探す主人公たち。そのために自分のやるべきことに殉じる精神。そして、そんな人の思いとは無縁にゆったりと大きく胎動する自然の、世界の理(ことわり)。政治的な思惑や権力争い、という点では、佐藤史生の名作SF漫画「夢見る惑星」も彷彿とさせる。

上橋さんご自身が、「獣の奏者」のあとがきで、未来少年コナンなどの高畑勲宮崎駿アニメに言及してらっしゃいましたし、別の場で萩尾望都さんとも対談なさっているので、私が大好きだったアニメや漫画を同世代として共有している感覚がすごくある。ゲド戦記ナルニア国物語、上橋さんご自身が何度も言及しているローズマリ・サトクリフの小説など、共有した物語世界がすごく多いし、守り人シリーズにも同じ匂いが濃厚にする。バルサやチャグムと一緒に旅するこの世界の居心地の良さは、上橋さんの筆力によるリアリティだけじゃなくて、そういう懐かしさも一因なのかもしれない。

藤沢周平池波正太郎がファンタジーを書いたなら

同じような親しみやすさは、バルサの剣戟シーンにも感じて、短槍一本で窮地を脱していくバルサの戦闘シーンの描写は、私の大好きな藤沢周平の「隠し剣シリーズ」を読んでいるような感覚。このリアルさはなんだ、と思ったら、上橋さんご自身が古武道をたしなんでらっしゃった、と書かれていて激しく納得。藤沢周平作品への言及もご自身されていたし、あの食事シーンの描写には絶対池波正太郎の影響があると思う。藤沢周平池波正太郎ファンタジー小説を書いたら、こんな感じになったのかも、なんて勝手に思ったりして。

そういう意味で、個人的に大好きなシーンが、チャグムがタルサン王子の裏拳を咄嗟にはねあげる、「虚空の旅人」のワンシーン。バルサに教わった防護術を毎日繰り返し鍛錬して身につけていた、そのおかげで一瞬で自然に体が動く、というのが、武道家っぽくっていいなぁ、と思う。何事も付け焼き刃じゃダメで、日々の修練なんだよなぁ、と。もちろんこれは長い物語の中に埋め込まれた数ある伏線の一つが表面化する一瞬でもあるので、そういう意味でも鳥肌シーンの一つになるんですが。それにしてもタルサンくんにはもうちょっと活躍して欲しかったがなぁ。サンガル王家のキャラ達は今ひとつ後に続かなかったのが残念。

・多層性と共通性

「狐笛のかなた」の感想でも書いたのですが、ル・グウィンのように光と影がくっきりと石垣で区切られた世界観でもなく、ナルニア国物語のような特定の宗教観に染められた世界観でもなく、複数の宗教や言語がそれぞれの立場でぶつかり合う多層的な世界観。それが非常に現代的だし、この物語が世界中で受け入れられている一つの要因なんだろうな、と思います。誰が善でも誰が悪でもない、それぞれの価値観に従って動いていく。敵役がいつしか味方になり、味方がいつしか敵になる。そうやって全体が相対化されていくと、物語の軸がぶれてしまうリスクもあると思うのだけど、上橋さんは決してそんなやわなストーリーテラーではない。

てんでバラバラの世界の中に、ナユグ、という二重世界の存在がどの世界でも漠然と認識されていて、実世界であるサグに様々な影響を与えている、というのが、物語の一つの軸になっている。この、ナユグ、が、北のカンバルではノユーク、南のタルシュではナユーグル、と呼ばれている、という描写で、私は思わず、「オンゴロ、そうか、オノゴロ島か!」と叫んでしまった(すみません、マニアな反応で)んだけど、諸星大二郎の漫画とか、上橋さんは絶対読んでると思うんだけどなぁ。

そういう、何か世界を動かしている大きな共通の力がある、という感覚って、逆に言うと、そういう力に対する人間、という存在を相対化するんだよね。バナナタイプ、とか、呪的逃走、と言った民話のタイプが世界中に分布している、なんていう話を聞くと、結局みんな同じ人間で、同じような物語を面白いと感じるんだな、とか、同じような世界観を持っているんだな、と思う。守り人シリーズにおいて、人の営みとは全く関係のない周期でゆったりと動くナユグの世界は、それに向き合わねばならない人間の営みを一気に同じ地平に並べてしまう。ただ向き合った状況に対して、自分のなすべきことをただなさねばならない、という立ち位置。

・人としての営み

自分のなすべきことをなす、という点で、一番ブレがないのがバルサで、迷い苦しみながらその道を辿っていくのがチャグム。だからこそバルサはチャグムにとって常にメンターであり続けるのだけど、私的には、頼りなげなんだけど人としてブレないタンダの立ち位置に惹かれたりする。いい人すぎる、とA乃ちゃんとかが言っていて、それはそうだな、と思うのだけど、彼が一番、人としての営みに近いところにあって、人の日々の生きざま、死にざまに触れていて、だからこそブレない倫理観を持っている気がする。その人のよさのために、彼自身窮地に立ったり、生死の境をさまよったりするんだけど、彼の軸がぶれないことが、バルサの軸も支えている気がするんだね。タンダはバルサのような超人ではないし、チャグムのような貴人でもない。でもそんな彼が、日々の生活と呪術師(医師)という仕事の中で身につけた軸だからこそ、実感とリアリティがある。戦場の最前線でこれから自分が人を殺すことにおののくシーンとか、あまりにリアル過ぎて苦しくなるくらい。

人として生活していく、その営みの確かさと、そこに根付いた倫理観がしっかり描かれるから、このファンタジーはファンタジーを超えたリアリズムを持っているのだと思います。タンダの存在が、この物語の一つの揺るぎない軸のような気がする。このタンダの軸がぶれないからこそ、バルサは超人的な活躍ができるのだし、どこかでタンダの軸に支えられている。バルサがそれをはっきり語る、「私の連れ合いです」という言葉には、ただもう涙。

なんかもっと上手くこの叙事詩について語れる言葉があるような気がするんだけど、今の私にはこれが精一杯。二週間のリフレッシュ休暇も今日で終わり、新ヨゴ皇国のはずれ、うまそうな山菜汁の香り漂う一軒家から、通勤ラッシュにもまれる東京へ戻らねば。心の洗濯にピッタリの良書を貸してくれたA乃ちゃんに、改めて感謝です。