東京って狭いのねー

今日は、夕方から、タイから来たお客様を個人的に接待する、という計画のために、車で出勤。タクシーを乗り継いで都内移動するよりも、小回りが利くし、駐車場代とタクシー代もさほど変わらんだろう、という計算です。普段の通勤時間よりも、少し早め、7時に家を出発。

と、カーナビの「カーくん」が、予想到着時間を7時30分、と表示。30分で着いちゃうの?だって、電車で移動したら、1時間20分くらいかかるんだよ。そんなに早く会社についても困るので、一旦家に戻り、いつもの出勤時間よりも少し遅く、娘を車でバス停まで送ってから、会社に向かう。首都高速は例によって混んでいたので、カーくんの予測よりは時間がかかったけど、電車通勤よりも早く、1時間くらいで会社に着きました。

あんまり、マイカー通勤というのをやったことがないのですが、週末の練習の帰りなど、高速を使って帰ってくると、東京という都市が、随分狭い都市だ、というのに今更ながら気付くことがあります。都内の練習場から高速に乗ってしまうと、道が空いていれば20〜30分で調布市の我が家にたどり着いてしまう。調布の味の素スタジアムの前には、「東京オリンピックのマラソン折り返し点」という表示があるんですが、要するに、代々木から調布まで、片道20キロしかないってことだよね。この20キロの中に、どれほど濃密で、かつ多彩な街並みが詰まっていることか。

例えば、北京市なんか、天安門だけで幅2キロ近くあったりしますよね。奥行きに至っては5キロくらいないかな。要するに、10平方キロだ。10平方キロってことは、荒川区と同じだぞ。荒川区と同じ広さのところに、でかい門が3つ並んでる。さすがトゥーランドット。何のこっちゃ。

以前も何度かこの日記で触れているんですが、東京という街の面白さは、個性的な小さな街が狭い区画の中にぎゅっと詰まっていて、そういう区画がものすごく沢山集まってできているような感覚にあるような気がする。一つ一つのピースがものすごく小さいジグソーパズルのような。同じ町の中でも、駅の北と南で全然様相が違っていたり。ものすごく近代的なビル群の間で、倒れそうな古い木造の家が固まっていたり。全体的には均質化された近代都市なのに、よく目を凝らしてみると、すごく細かい小さな模様が集まって大きな模様になっている。いくつも重なった入れ子構造。

でも、都市というものが、人間の生活の時間を積み重ねた末に出来上がっているものであり、そして変化していくものであるとするならば、そういう入れ子構造を持つことっていうのは必然なのかもしれないですね。入れ子構造というよりも、都市の持っている「地層」のようなもの。古い地層の上に新しい地層が重なっていくとしても、古い地層は決して消えてなくなるわけではなく、所々で顔を出している。以前、この日記に書いたように、北京だって、表面的には同じような光景が延々と続いているように見えて、門を一歩はいると、それぞれの区画ごとにまるで違った様相が広がっていたりしますから…

でも、特に東京でそれを感じるのは、一つ一つの「地層」が積みあがっていくスピードがすごく早いのと、その地層が狭い区画の中で生まれていくからだろうね。ある都市で、100年の時間が過ぎたとする。その都市のある狭い一角にあった建物群が、その100年のうちに、どれくらい入れ替わるだろうか、と言えば、100年たってもずっと同じ建物がでーんと建っている都市もあれば、半分くらいの建物が入れ替わる都市もある。そうすると、その一角では、100年を経過した建物と、新しいたてものが半々に混在する。2つの地層を持つ区画。

東京においては、一つの狭い区画の中で、100年のうちにめまぐるしく建物が入れ替わっていく。それでも、100年変わらずに残っているものもある。例えば、2年に一回くらいのペースで新しい建物が建っていく、とするなら、その区画においては、100年間で50の異なる「地層」が積みあがっていくことにならないかしら。かなり乱暴な言い方だけど。

東京という街では、2年に1回、なんて悠長なペースじゃなくて、もっと早いスピードで町が変化していますからね。しかも、北京みたいに、相当広い区画を根こそぎ新しい街並みに入れ替えてしまう、というようなやり方じゃなくて、一つの区画の中で、ずっと変わっていないものも抱え続けている、というのが、東京という街の無秩序感であり、面白さなのかもしれないなぁ。