「おいしい役」だけが立っちゃうとダメ

舞台とか見ていると、「これはおいしい役だなぁ」と思う役に出会うことがあります。もちろん、その役を「美味しく」料理している役者さんの力量によるところがすごく大きいのだけど。オペラとかも見ていると、主役じゃない人が、全編の中で一番大きな拍手をもらったりすることって、ありますよね。

昨夜、クラシカ・ジャパンで今月放送している、98年に北京の紫禁城で上演されたプッチーニの「トゥーランドット」の映像を見ていました。チャン・イーモウが演出したやつ。当然といえば当然なんだけど、出演者の衣装がものすごくきちんと中国していて安心して見られる。女房が、「やっぱりホンモノを知ってる人がデフォルメするのと、知らない人がデフォルメするのとじゃ違うんだよねぇ」とため息をつきながら見ていました。とはいえ、最近の日本の着物事情だって相当テキトーで、子供向けの七五三の案内DMとかみると、袖口にフリルが付いた着物とかがあって結構びびってしまう。松田聖子ブランドだっていうのだけどさ。そういえばなんでも許されると思ってないか?

話は戻って、「トゥーランドット」って、タイトル・ロールのトゥーランドット姫よりも、やっぱりリュウが「おいしい役」なんじゃないかなぁって気がしますよね。ティムールとかも脇役のわりにすごくいいアリアがあっておいしい。そういう目で見ると、オペラには色んな「おいしい役」と、ちょっと損な役がある気がする。損な役の代表例といえば、「ばらの騎士」のテノール歌手かなって気がするが。一曲ぺらんと歌ってそのまま退場だもんなぁ。ドラマにも全然絡めないし。

ガレリア座でも、「おいしいなぁ」と言われる役には共通項がある気がします。要するに、主役ではなくって、ドラマの軸をずんずん動かしているわけではないんだけど、ドラマのちょっと端っこの方にいて、細かい芝居でお客様の目を引いて、すいっといなくなる、そういう役。ティムールとかはこういう「おいしい役」の類型のような気がするね。「ボエーム」のコルリーネとかも、この類型に入る気がする。

もちろん、そういう「端役」の「おいしい芝居」だけじゃなくって、ドラマの中心近くにいても、「この役はおいしいなぁ」と思われる役はある。でもそうなると、結構人の好みに左右される部分が多くなっちゃう。例えば、「椿姫」だって、私からみれば、パパジェルモンは、アルフレードなんかよりも全然おいしい役だ、と思うけど、やっぱりアルフレードが素敵!っていうヒトだっているだろうしね。

私が感じる、主役級の「おいしい役」というのは、キャラクターが類型化していなくて、とても「立ってる」役。主役のテノールとかソプラノとかって、わりと単純明快な直球勝負のキャラクターが多い気がするんだけど、そういう主役をどこかで斜めに見ていたり、どこかに屈折があったりするキャラクターが好き。必然的に、テノール・ソプラノの脇を固めている、メゾソプラノとかバリトンに目が行くんですが。アイーダとかでも、アムネリスが可哀想だなぁ、なんて思っちゃうし、ドン・カルロなんか、どう見たってフィリポ二世のためのオペラ、と言う風に見えちゃう。大体、イタリアオペラのテノールってのは単純バカが多いから感情移入できないんだよ。ラダメスなんてほんとに脳みそ筋肉だしなぁ。

でも、そういう、真ん中より少しそばにいる準主役がブラボーをもらう舞台ってのは、本当はマズイ舞台なんだよね。よく、脇にいる「おいしい」準主役に主役が食われる舞台ってのがあったりしますけど、女房なんかに言わせると、「音楽の推進力になるべき主役が食われるってことは、全体の音楽のバランスを損なってしまうから、オペラにとっては致命的なんだと思う」んだって。主役が主役として、きちんと自分の仕事をすれば、「おいしい」準主役にもブラボーが来るし、主役にだってブラボーが来る。

それがすごく実感できた舞台ってのが、少し前に新国立で見た「コジ・ファン・トゥッテ」。コジっていうオペラは本当に大好きなオペラなんだけど、主役の4人の若者よりも、デスピーナとかドン・アルフォンソの方が、「おいしい役」だよなぁ、と思って今まで見てたんです。でも、新国立の舞台では、「このオペラの主人公はフィオルディリージなんだ!」ということを、ジャンスさんが素晴らしい歌唱で示してくれた気がした。

主役がきちんと求心力と推進力を持ち、準主役がきちんと「立った」キャラクターを見せておいしい芝居をしている。いい舞台ってのは、そういう全体のバランスがすごく取れてるもんだと思います。