「アドリアーナ・ルクブルール」〜暗闇を見通す目〜

週末、女房が参加した、アルモニア・ヌーヴァの「アドリアーナ・ルクブルール」を見に行く。いや面白かったです。
 
【指揮】
鈴木彰久

【演出】
加藤裕美子

【CAST】
アドリアーナ・・・・星野由香利
マウリツィオ・・・・上本訓久
ミショネ・・・・・・荻島寛樹
公妃・・・・・・・・諸田広美
シャズイユ・・・・・井澤義男
ブイヨン公・・・・・大澤恒夫
ジュヴノー・・・・・大津佐知子
ダンジュヴィル・・・長浜奈津子
ポアソン・・・・・・菊地伸吾
キノー・・・・・・・神田宇士

【演奏】
アンサンブル・モーイ
 
という布陣でした。

「アドリアーナ・ルクブルール」は、以前お世話になった埼玉オペラ協会の公演を聴きに行っています。女房がこの団体にお世話になることになり、2度目の観劇となりました。そもそも、ものすごいオペラフリークというわけではないので、通しオペラを何度も見ること自体あまりないのに、あんまり日本で名の知れていないこのオペラを2度も見ているってのは、ちょっと不思議な縁を感じます。でも、本当に美しく、ドラマも緊迫感があって、実にいいオペラです。

今回の公演会場は、府中グリーンプラザのけやきホール、という少し小さなホール。キャパは400人くらいで、舞台の間口も6間くらい。こじんまりした会場なんですけど、私にはとても好ましい会場に思えました。間口が狭くて奥行きが結構ある会場っていうのは、なんだかイタリアあたりの地方の小さなオペラ劇場を思わせるものがあって、いいなぁ、と思う。舞台下に設定されたオケピットも、ピアノと7名程度の小さなアンサンブル。舞台の奥行きも4間ないくらいで、奥に向って階段と台がしつらえてあるから、実際の演技スペースの奥行きは2間もないかな。こじんまりしているのだけど、この会場全体をPAの助け無しにしっかり鳴らすには、相当のパワーが必要だし、逆に、サイズが小さい分、一人ひとりの声の色も、繊細なニュアンスも、小さなミスも全部客席に届いてしまう。会場が助けてくれない、自分の力だけで勝負しないといけない、難しい舞台です。

そういう舞台環境で、主要キャスト3名(アドリアーナ・マウリッツィオ・公妃)が本当に素晴らしく、このオペラの魅力を十二分に楽しませてくれました。アドリアーナの星野さんの中低音域の響きのまろやかさ。マウリッツィオの上本さんの求心力。公妃の諸田さんの輝かしい響き。諸田さんは、元ソプラノのメゾ、ということで、高音がしっかり伸びるし、メゾの音域に入っても響きの明るさが変わらない。逆に、星野さんは、元メゾのソプラノ、ということで、低音がとても豊かに響く。2幕のお二人の二重唱は実に聞き応えがありました。

演技、という意味で言うと、アドリアーナの星野さんが、大女優としてのオーラと、一人の平民の女性としてのか弱さと切なさを演じ切って見事でした。愛する人の花嫁になる約束を目の前に死んでいくラストシーンは涙なしには見られない。上本さんはテノールらしい存在感があるのだけど、多分まだまだ磨けば光ると思うなぁ。諸田さんは立っているだけで品格が漂うのだけど、人柄の良さがにじみでてしまうのか、悪女、というにはちょっと優しすぎる感じがした。こういう公妃だと、逆に、「公妃も結構可愛い、可哀想な女じゃないか」っていう気になるよね。結局、マウリッツィオが優柔不断だからいけないんじゃん、という感想が強くなる。埼玉オペラで公妃を演じた田辺いづみさんは徹底的に悪女に作ってて、あれもかっこよかったけど。

アドリアーナの女優仲間の一人、ということで出演した女房は、「合唱も難しいけど、アンサンブルっていうのは本当に難しいよ」と言いながら、4人の俳優仲間たちのアンサンブルをなんとか勤め上げました。贔屓目ながら、4人のキャラクターがしっかり立った、いいアンサンブルだったと思います。こういう脇役がしっかり立っていると、中心の3役の求心力が際立っていいよね。そういう意味では、シャズイユ役の井澤さん、ブイヨン公役の大澤さんも、存在感のある素晴らしい演技でした。

ちょっと残念だったのは、ミショネ役の荻島さん。本番直前に声をつぶしてしまったみたいで、本来の涼やかなバリトンの響きが失われてしまっていて、なかなか声が飛ばない。私自身がバリトンで、ミショネというのは、このオペラの中でも最も思い入れの強い役だけに、本来の声のミショネが聞きたかったなぁ、とそれだけが残念。

この舞台を見る前に、北村薫さんの「謎物語あるいは物語の謎」という本を読んでいて、その中に、ピーター・シェファーの「ブラック・コメディ」への言及がありました。このお芝居、私は加藤健一事務所の舞台を見ているのですが、舞台上の明かりの指定が、日常生活の逆になっている舞台なんですね。冒頭、真っ暗闇で、出演者の動く気配やセリフや物音だけが聞こえる、このとき、舞台上は、光溢れる普通の日常生活、という設定。そしてにわかに舞台上が停電になり、真っ暗闇になった、という設定で、逆に、舞台上の照明が点灯。客席には舞台上の出来事が見えるのに、役者は、真っ暗闇を手探りで悪戦苦闘している、という芝居になる。

この「ブラック・コメディ」の設定がすごく新鮮に見えたのだけど、「アドリアーナ」の2幕なんか、実は同じ設定が使われているよね。真っ暗闇の中で、相手が自分の恋敵とも知らずに会話を交わす2人の女性。その緊迫感を、舞台上の光はしっかりと照らし出しているのに、役者は暗闇の中の芝居を続けている。それを見つめる我々観客。

観客の目は、舞台上の登場人物の目に見えないものを見る。それが舞台の構造なんですね。観客は一種の神として、千里眼や予知能力を与えられ、登場人物がたどるべき運命の行き着く先まで見えている。一方で、舞台上の登場人物は、自分の指先さえ見えない暗闇の中で震えている。そういう舞台の基本構造のようなものって、多分ギリシア神話の時代から変わっていないんだろうなぁ、と、なんだかそもそも論みたいなことを考えながら見ておりました。出演者の皆様、スタッフの皆様、お疲れ様でした。これからも女房がお世話になると思います。地元府中に根を下ろした、小粒でもとっても密度の濃い、いい舞台を作り続けていってくださいね。