「その心の響き」演奏会〜地に足をつけて〜

12日の日曜日、大久保混声合唱団の高田三郎作品演奏会「その心の響き」をステマネとしてお手伝いしました。

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指揮 辻裕久 
ピアノ 辻志朗
合唱 大久保混声合唱

−深尾須磨子 詩 〜春から冬へ〜薄氷・夕立・みのり・囲炉裏
−イザヤの預言
高野喜久雄 詩 ひたすらな道
高野喜久雄 詩 水のいのち
−野上彰 詩 秋を呼ぶ歌

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…という内容でした。
 
3年前、この仕事に最後まで執念を燃やし続けていた正行先生が、演奏会の8日前に急逝。ご長男の秀幸先生が代わりにタクトを取られた演奏会は、今でも忘れることができない感動的な舞台でした。そして3年。正行先生の遺志を継ぐ形で、ご三男の裕久先生を音楽監督に迎えて、この企画が再開。その演奏会をお手伝いする、という、本当に名誉な仕事を引き受けさせていただきました。

演奏会としては、ものすごくヘビーな内容で、合唱団の皆さんも、指揮の裕久先生も、ほとんど耐久レースのような感じで臨まれたようです。特に、伴奏の志朗先生は、本番のぎりぎり10分前まで、舞台のピアノにかじりついてらっしゃる姿が、ほとんど鬼気迫る雰囲気で、この演奏会のプログラムのハードさを改めて感じた次第。

実際こうやってプログラムを眺めてみても、高田三郎先生の宗教三部作の一つである大曲「イザヤの預言」がずっしりと重く、さらに次の「ひたすらな道」も、ずっしりと哲学的に重たい曲です。さらに、高田合唱曲の頂点に位置する「水のいのち」と3曲続けての演奏・・・普通の演奏会のメイン曲が3曲連続しているようなもの。これは演奏者にとってはものすごくチャレンジングなプログラムだったと思います。

裕久先生の指揮を拝見するのは初めてだったのですが、リハーサルの「水のいのち」には本当に感動しました。後ろから見ていても、袖の窓から拝見していても、裕久先生の指揮は実にカンタービレなんですね。ヘンな言い方ですけど、腰から下がすごくどっしりしていて、ゆるぎない感じがする。先生が手をさあっと広げると、地にしっかり根を下ろした木の幹から、さぁっとみずみずしい若葉が萌え出てきたような、鮮やかなオーラが噴きあがる感じがする。指揮そのものが、裕久先生の歌になっている。そんな裕久先生の歌のパワーに応えて、大久保混声合唱団が、深い深い、まろやかな声で答える。特に最終曲の「海よ」は、「こんなにこの曲ってフィナーレらしいフィナーレだったんだ」と、改めて感じさせる色彩豊かな演奏で、客席で聞きながら、自分の仕事も忘れて思わず涙してしまいました。

「イザヤの預言」、というのは、正直、私のような音楽音痴には、あまりとっつきのいい曲ではない気がしていて、何度か聞き込む必要がある気がしています。最終曲で、合唱が穏やかな平穏に至る時、絶え間なく流れるピアノの不協和音が意味しているのは、荒廃した人の世の中でも信仰の中で心豊かに生きる人の境地を示しているのかしら。

個人的には、「ひたすらな道」が好きでした。「〜春から冬へ〜」の叙情性と軽快さ、「秋を呼ぶ歌」の艶やかさも好きでしたけど、「ひたすらな道」の中にある、無我という理想への希求と、それをつなぎとめようとする煩悩や人間的な苦悩とのせめぎあいは、実にドラマティックで、大好きな曲になりました。

出演者の皆さんの熱演で、本当に感動的な演奏会だったのだけど、ステマネとしては、ものすごく基本的なミスを連発してしまって、反省の多い演奏会になりました。最大のミスは、指揮者の裕久先生に、舞台への出のきっかけを事前確認しておかなかったこと。裕久先生は楽屋にこもってらっしゃって、こちらからのきっかけを待っていらっしゃったらしく、出演者が全員舞台に出た後、舞台袖に先生がいらっしゃっていなかった。あわててあの急階段をかけおりて、楽屋に先生を呼びに行ったのだけど、先生を連れて出てくるときに、あわてていて舞台上の明かりの転換を忘れ、暗い舞台のまま先生を送り出してしまいました。会場のスタッフさんがすかさず気をきかせて明かりをあげてくれて、なんとか事なきを得ましたけど、スタッフさんからも、女房からも厳しいダメ出しをもらいました。大反省。

出演者と、全体の段取りについて、細かいところまできちんとコンセンサスをとっておくこと。最近大久保混声さんと一緒に仕事することが多くて、そのあたりのコンセンサスの取り方がナァナァになっていた部分が否めないよね。それこそ、きちんと地に足をつけてやらねば。4月の演奏会のステマネもおおせつかっているので、その時にはきっちり仕事をしたいと思います。大久保混声合唱団の皆様、今度はミスのないようにがんばりますので、よろしくお願いしますね。これから熊本の全国大会に向けての追い込み、がんばってください!