ディオニソスコンサート「歌曲を歌う?」〜主体性を持った依代〜

女房が出演した、ケイ企画主催のディオニソスコンサート、総勢7名の女性歌手が出演され、それぞれに熱のこもった演奏を聞かせてくれました。でもこういう複数の歌い手さんが歌曲をうたいつなぐコンサートというのは、それぞれの個性を楽しむ一方で、それぞれの力量も比べられてしまう、という点で、結構怖い企画だと思う。歌というのは年齢と共に加わってくる技術や円熟によって、いつまでたっても変化し続ける芸ですから、この歌い手さんは今このあたりにいるな、とか、これがまだ克服できていないな、とか、まだまだ発声自体出来上がってないな、とか、色んな聴き比べをしてしまう。歌い手さんからすると非常に厳しい舞台だと思います。

それでも舞台に乗る以上は、何かしらのパッションがあるはずなんだけど、ここでももう一つ怖い関門があって、「こんなに歌える、こんなにできる『私』を見て!」というパッションと、「こんなに素敵なこの曲を聴いて!」というパッションが、いい感じにバランスしないといいパフォーマンスにならない。舞台に立つ以上は、自分をアピールしたい、という欲がないわけはなく、逆にそのアピールがないと本当の自己満足に終わってしまう。客席に対して、「私よ!」というアピールが足りない歌い手さん、というのももちろんあって、いったい君は何がしたくてこの舞台に立っているんだ、という気分になることもある。

でも、「私!」というのが強すぎても、いいパフォーマンスにならないんだよね。楽譜に書かれた作詞家の思い、作曲家の思いをいかにきちんと客席に伝えるか。そこには当然歌手の解釈も加わってはくるけれど、その作詞家と作曲家と歌手の自己主張のバランスがうまく保たれないと、曲に負けてしまったり、自分に負けてしまったりする。

歌手、というのは、自分なりに解釈した作曲家、作詞家の思いを客席に向かっていかに忠実に飛ばしていくか、という意味で、主体性を持った優れた「依代」であるべき存在で、そこで、「こんなに高い音が出せる私を見て!」とか、「こんなにこの言語をきれいに発音できる私ってすごいでしょ!」という思いは邪魔にしかならない。作曲家が意図した音であるか、作詞家が伝えたかった響きであるか、それを自分なりに掬い取った結果を客席にどう伝えるか、というところだけが勝負ポイント。

そういう意味では、出演者の中で、ラベルを歌われた富田真理さんが特に印象に残りました。安定したまろやかな声と柔らかなフランス語の響きで、ラベルの色彩豊かな世界をしっかり作っていた。

トリを務めた女房については、若干手前味噌になるかもしれませんが、舞台上に「世界を作る」という意味では図抜けた存在感だったと思います。挑戦したプーランクの「偽りの婚約」は、今の女房の実力からすると少し難度が高すぎたかもしれず、すべてのパッセージが完璧な響き、とは言えなかったけれど、女房も別のところで言っていたように、数年後にこの人が歌うこのプーランクを、もう一度聞いてみたい、そう思わせる表現でした。

面白かったのは、女房の舞台の時に、パンフレットや訳詞カードから目を離して舞台上を見つめるお客様が多かったこと。声の色合いとか間の取り方のヴァラエティが多いから、「何をやってる?」と思わず顔を上げてしまうんだね。オペラ舞台で鍛えた求心力のたまもの。

でも、そういう求心力も、プーランクの表現したかった世界を忠実に表現しよう、というパッションと、女房の持っている技術やパッションのバランスの中から生まれてきたものなんだと思います。女房はとにかくプーランクが好きで、今年はヴェルディイヤーだ、ワーグナーイヤーだ、と騒がれている中で、「今年はプーランク没後50年のメモリアルイヤーなのだ!」と一人で騒いでおります。プーランクという大好きな素材と、その素材に対する女房の思いや技術のバランスがうまく取れた、いいパフォーマンスでした。女房はじめ、出演者の皆様お疲れ様でした。大変な挑戦だったと思いますが、とても楽しませていただきました。