怪奇探偵小説名作選〈7〉蘭郁二郎集―魔像〜昭和のエログロの魅力と、オペレッタ〜

以前もこの日記に書いたことがあったと思うのですが、大正から昭和の初期、という時代に、すごく興味を惹かれています。日本に「ブルジョワ」文化が生まれ始めた時代。中流層が発達し、「大衆」文化が定着し始めた時代。そういう文化の勃興期において、新しい西欧文化流入と、日本的な享楽性が混合した結果として、一種の「エログロ文化」が花開いた時代。その一方で、社会は大きな貧富の格差を抱えていた。そういう構造って、どこか、オペレッタの舞台になった世紀末ウィーンとか、パリの香りがする。現代日本よりもよっぽど、エネルギーとカオスに満ちた、魅力溢れる時代のような気がするんです。

そういう時代の「大衆文化」の雰囲気を、色濃く現代に伝えているのが、江戸川乱歩の諸作品じゃないか、と思っていました。でも、筑摩書房が出しているこの「怪奇探偵小説名作選」を読むと、江戸川乱歩が、この時代の「エログロ文化」の一つの巨人であると共に、数多く現われた同種の作家群の中の一人に過ぎないことも理解できる。

この「怪奇探偵小説名作選」シリーズ、以前、「小栗虫太郎集」を読んで、そのトンデモぶりに呆然としました。詳細を述べることはほとんどできなくて、ほんとに、呆然とする、としか言いようがない。全編の文章のうち、2分の1くらいの記述が理解できない、という恐ろしい推理小説で、謎解きの部分も当然ながら理解できない。それでも最後まで思わず読み進んでしまうパワーというか、強引さというかなんというか。そして全編に流れているのは、乱歩に通じる、ひたすらに耽美かつ退廃的な美学。

で、「蘭郁二郎集」です。文章は全然難解じゃなくって、むしろ浅薄な感じすらするんですけど、圧倒されるのはその変態ぶり。全編、これでもかこれでもかといわんばかりの「変態小説」ばっかり。サド・マゾ、死体愛好、フェティシズム、トリップ、美少女趣味、なんでもあり。別に、セックスシーンの描写なんか全然なくて、文章はむしろ淡々としていたりするんですが、変態嗜好に取り付かれた人物達を淡々と描写されると、これはこれで結構効きます。

この本の編者の意図もあり、前半は、まさしく「変態小説」のオンパレードなんですが、後半になると、SF小説がいくつか収められていて、これがまた魅力的。前半の小説にあった変態性は「少し」後退して(結構残ってるんだが)、かなり本格的な科学小説です。当時の科学知識としては先端を行く感じで、超音波攻撃だの、脳波操縦だの、染色体改造だの、ニコラ・ステラのトンデモ科学や、スチーム・パンクにも通じるレトロ科学がてんこ盛り。これがまた魅力的なんだ。

オッフェンバックの「ホフマン物語」でも、自動人形オランピアの物語、という、一種のSF物語が出てきたりしますし、オッフェンバックの作品には、どこか病的な「変態性」を感じることがあります。蠢惑的な退廃渦巻くパリから生まれたオペレッタのハチャメチャさと、この昭和初期のエログロ小説家の変態小説に、なんとなく共通の魅力を感じてしまうのは、私だけかしら。

…と、一応紹介はしますけど、この本、かなりのマニアか、かなりの変態の方にしかお奨めしません。一般の方が読んでも、「なんなのこれは?」と??が飛びまくるのがオチですので。では、私は変態なのか、といえば、いや、ただのマニアです、と答えておこう。マニアと変態の境界については深く追求しないように。