とても具体的・かつシンプルな解決方法を見つけ出すこと

ガレリア座の次回公演、「モンマルトルのすみれ」。全編の大詰めとなる第3幕の演出が、この週末に付きました。オペレッタにお詳しい方はよくご存知だと思いますが、大抵のオペレッタ、第3幕は「ドラマ」で見せるのが定石。つまり、歌がわりと少なくて、セリフでドラマを展開させていくシーンが多いのです。今回の「モンマルトルのすみれ」でも、第3幕は非常に長いセリフのやりとりが多い。ガレリア座のようなアマチュア団体だと、セリフをもらっている出演者の多くが、お芝居には素人ですから、演出家の厳しい罵声を浴びながら、すごい危機感を持って、「どうやったらいいんだろう」と悩みながら、自分のシーンに臨んでいます。

なにせ練習時間の限られている団体ですから、演出家の指示が、細かい演技指導にまで及ぶ時間がない。おのずと、「できてない!」「こういうことをやるべきだろう!」「あとの細かいところは、自分で考えろ!」という指示の元、出演者たちが、あーでもない、こーでもない、と考えて、自分の引き出しの中にある色んな演技プランを出してくる。出演者の創意工夫と、演出家の要求とが、幸福な形でぶつかりあっていくと、そこに一種の緊張感が生まれ、非常に幸福なバランスが出てくる。演出家が予想していなかった演技を見せる役者と、その役者の演技に対して、さらに高度な要求を出してくる演出家。そうやってお互いのアイデアをぶつかり合わせることで生まれてくる緊張感。

でもなかなか、そういう状況にはならないんですよね。役者といっても、素人集団ですから、そんなに演技に引き出しがあるわけじゃない。演出家と言っても、演技指導のプロではないから、どこをどうやったら役者の演技の幅が広がるか、なんていう指導はできない。結局、限られた引き出しの中からしか出てこない演技と、どうやって役者の演技の幅を広げたらいいのか、苦悩する演出家が、ただにらめっこしている、という、重苦しい練習になることも。

ここで、役者が陥りがちな罠があります。「この場面というのは、全体の構成の中にあって、こういう位置づけの場面で、その中での自分はこうあるべきで、だからこういう演技をするべきで」なんていう「べき」論を延々考え始めたり、口にし始めたりしてしまう。でもね、そういう「べき」論っていうのは、演技の幅を広げることにはあんまり役に立たないんです。もちろん、役作りという意味ではとても大事な作業なんですよ。でも、「こういう表現ができていないから、それを解決しなさい」と言われた時に、「この場面において表現するべきものは何か」なんていうそもそも論を並べ始めても、あんまり意味はない。オレはしょっぱすぎる味噌汁は嫌いだから、もう少しなんとかしてくれ、と言われて、味噌汁というものはしょっぱいものであって、オレはこの味噌汁でもしょっぱさが足りないと思ってるくらいだ、なんて反論してみても、「あんたはどうか知らんが、オレはしょっぱすぎる味噌汁は嫌いなんだよ」と言われて終わりですよね。演出家の指摘に対して、「べき論」で反論するのって、割とそれに近い議論のような気がするんです。演出家とのすり合わせってのは、とっても大切なプロセスではあるんだけどさ。「できてない」と言われたら、そうか、演出家の意図はそこにあるのか、と理解した上で、まずそれを実現するために、「すみません、やります」と表現してみる。でも、その表現の中で、演出家の「かくあるべき」に自分の「かくあるべき」を加えた、さらに新しい、演出家が予想していない表現をすることで、演出家の「かくあるべき」を変質させてやろう!というのが、ホンモノの役者の目指すべき気概なんです。

厄介なのは、そういう「べき」論を並べ始める役者さんが、「役作り」のために真剣に演出家と役のイメージをすり合わせようとしている、というよりも、別の目的で「べき論」を始めることが結構あること。別の目的っていうのは、自分ができていないことに対する言い訳、という目的だったりする。簡単に言えば、「できてないよ」と言われて、「しないべきでしょ」「しないべきだと私は思う」と言い張ることで、「自分はできない」のではなくて、「自分はできるけど、してないだけです」と主張する。でもねぇ、そういう発言、周囲は結構シビアに聞いてるんです。この人は、「できないからやってない」のか、「できるけどやってない」のか、なんてのは、割とすぐに見抜かれちゃうこと。周りが見抜いているのに、一生懸命、「私は本当はできるけど、やってないんだよ!」と言い訳してるのは、決して美しくない。

意外と、ちょっと舞台表現をかじった人とか、音大でオペラやってました、なんていう人の方が、かえってこういう「べき論による言い訳」を並べ始めたりするんだよねぇ。さらに凝った人だと、「私は、ここでこうあるべきだと思う。こうあるべきだと思っている私って、ちゃんと分かってるでしょ?全体を考えてるでしょ?」という自己アピールを一生懸命始める人もいたりする。「今、確かに私はできてないかもしれない。でも、私は頭ではちゃんと分かってるんだからね!私はちゃんと専門に勉強してきたし、経験もあるんだから、何も分かってない素人とはわけが違うんだから!」…出来てないことを認めながらも、「分かっている自分」をアピールすることで満足している。でもね、舞台は、出来たこと、表現されたことしか問われない場所です。「分かっていること」なんてのは何の意味もない。厳しい言い方だけど、それが舞台です。

役者がやるべきことは、演出家が、「こういう芝居にしたいんだ」「こういう芝居であるべきだと思うんだ」という全体のアイデアに対して、極めて具体的なテクニック(=声・表情・動作)によって、目に見える形=演技として、その芝居を見せること。「こういうセリフにしたい」「こういうキャラクターにしたい」と演出家が言うことを具体的に演じるためには、自分の引き出しの中にある演技の中から、何を出して見せればいいか。どんな表情をすればいいか。どういう動きをすればいいか。どういう声の色を使えばいいか。どういう間の取り方がいいのか。自分の持っている引き出しの中に答えがなければ、引き出しをどうやって増やせばいいか。ある意味、役者というのは、まず、そういう「職人」であるべきなんじゃないのかなぁ。

引き出しを限定しているのは、ものすごく単純な思い込みだったり、あるいは無意識の「癖」だったりします。だから、自分の動作の一つ一つ、セリフの一つ一つを、全部意識して、コントロールすることが必要。その上で、「他のやり方はないのか、他のテクニックはないのか」と、常にトライしていく。職人が、色んな現場にぶち当たった時に、まずやることは、自分の道具を点検し、整備すること。新しい道具があれば、手に入れて、使い方を覚えること。それと同じ。

そんなこと言われても、中々新しい道具なんか、見つけられないよ!と思う人も多いと思うけど、実際にはすごく単純なことだったりするんです。伊藤明子さんが、「舞台の上でソリストがやった芝居に対して、リアクションしてちょうだい!リアクションは大事だからね!」と合唱陣におっしゃっていたときに、こんなことをおっしゃいました。「難しく考えなくていいんだよ。どうリアクションしようか迷ったら、あ、い、う、え、お、のどれかを心の中で言えばいいんだよ。」

「あ!」でもいい。「あーあ」でもいい。「い?!」でもいい。「うっ!」でもいい。「うー…」でもいい。「え?!」でもいいし、「えー!」でもいい。「お!」でもいいし、「おお!!」でもいいし、「おー!!!」でもいい。なんでもいいんだけど、そういうリアクションはすべて、「あいうえお」で考えればいいんだ。単純でしょ?

先入観や、自分の「癖」のために、表現の幅をどうにも広げられないでいる人に、役者の間でやることは、「この人はそういう人かなぁ?」とか、「この人はこうあるべきだから」なんていう、抽象的で複雑な「べき論」を戦わせることじゃなかったりします。もっと具体的な、すごく単純な変更の方が、よっぽど有効だったりする。例えば、「そのセリフの音程、もっと高くしてみたら?」とか、「今まで座ってたけど、飛び上がってみるのは?踊りだしちゃうのは?」とか、「このセリフ、小声で出してたけど、大きな声で出してみるのは?」「歩く時は常に内股にしてみるのは?」「このセリフの中の、この音だけ、とにかく大きく出してみるのは?」…。そういう極めて具体的な、テクニック上の変更によって、今までの自分の演技が根本的に変貌したりします。…とはいっても、そういう具体的なテクニックを見つけられるかどうか、という点が、役者としてのセンスだったりするから、そこが難しいんだよ、と言われればそれまでなんだけどねぇ。