全てのダメだしは自分に向かっている

昨日、人にダメを出す、というのはすごく難しい、という話を書きました。今日はその続き。指導する側で気をつけないといけないこと、という観点で、昨日は書いたんですが、今日は、逆に、そのダメを受け取る側の気構え、みたいなことを書こうと思います。

舞台をやっていて、指導する立場になった時に、時々、役者の心の中にある壁がどうしても破れない無力感を感じることがあります。こういう壁というのはものすごくたちが悪い。

指導者としては、この壁をぶちやぶらないことには、パフォーマンス自体の質が変わらないので、押したり引いたり色々するんですが、役者自身がこの壁の中にこもっていて出てこないので、いくら押してもいくら引いても全然ダメ。それでも、パフォーマンスの質が上がらないから、同じダメ出しを繰り返すのですが、受け取り手の中の壁が破れないから、アウトプットに変化がない。同じダメ出しを30回繰り返しても、全然変わらない。壁の外でちょっと付き合ってくれた後で、また壁の中に戻ってしまって、元の状態に戻ってしまう。指導者としては、どんどん無力感に陥っていく。

役者自身が、その壁の存在に気づいていないことも多い。「壁があるよ」と言っても、理解すらしてもらえない。その場では理解したような顔をするのだけど、きちんと自分の中で「腑に落ちていない」から、結局変化がない。

「壁」の原因には色々あります。自分自身を客観的に見ることができない。人の話をきちんと理解できない。記憶できない。体がついていかない。色んな壁はあるのだけど、一番大きいのは、「プライド」。

自分自身が、以前、すごくプライドの高い役者だったので、この厄介な「壁」のことは結構よく分かるんです。一つ、忘れられない思い出がある。昔、ガレリア座で「魔弾の射手」をやった時のこと。私は悪魔ザミエルをやって、狼谷の魔弾作りのシーンで、舞台の背景にザミエルの巨大な影が浮かび上がる、という演出がありました。袖に隠れた私にライトを向けて、私の影をホリゾントに投影する。客席で、まだ結婚する前の女房が見ていて、照明の位置や立ち位置をチェックしていた。

私は手に杖を持っていて、この杖を振り上げるポーズでスタンバイしていて、明りが当たる。客席にいた女房が、「杖を下ろして!」と叫ぶ。でも、私は杖を下ろさない。ずっと杖を上げている。「杖を下ろして!」ともう一度、女房が言う。でも、下ろさない。「シルエットが汚いから、杖を下ろして!」と女房に言われて、やっと下ろした。

このシーンのことを、すごくよく覚えているのは、その時ふっと、「そうか、オレが思っている自分の姿と、客席で見えている自分の姿って、全然違うんだ」ということが急に「腑に落ちた」瞬間だったから。今から思うと当たり前の話なんだけど、この当たり前のことを理解するまでに、いくつもの舞台を経なければならなかったし、客席からのダメ出しを素直に受け取れる環境がなければならなかった。多分、同じダメ出しを別の人が出していたとしたら、本番では私は杖を上げていたかもしれません。

自分の頭の中には、杖を上げて、マックスとカスパールを威嚇しているザミエルの姿がある。だから、客席から何度ダメを出されても、自分の中で腑に落ちない。腑に落ちないから、そのダメに従えない。その自分の中にあるイメージと、それを演技として舞台上でやった時に、客席から見えているものとが「全く違うものなのだ」から、まずは客席の意見に従うべきなのだけど、自分のイメージに対して自信があるから、それを否定されることがなんだか悔しい。自分の人格を否定されたような気分になる。

もっと言えば、そのダメに従うことで、他の人よりも芝居がうまい、と言われていた私自身の、ガレリア座におけるポジションが揺らぐかもしれない、なんていう下らない思惑も、確実に邪魔をしていたと思う。ダメに従うことは、自分ができていないと認めること。つまり、自分が劣っていると認めること。自分は出来ている、他の人が出来ていなくても、オレは出来ている、と思うことで、オレはこの舞台上の他の役者よりも優位に立っている、と信じたい。恐ろしく下らないエリート意識。

舞台において正しいのは、お客さまです。お客さまが全てなんです。舞台上の役者がどんなイメージで、そのポーズを取っているか、なんてことは何の意味もない。客席に座ってダメを出している演出家は、お客様の視線で見た印象を語っている。とすれば、演出家の言うことが絶対的に正しい。

そして、ほとんど全てのダメだしは、自分自身に向かっている、と思った方が正しいんです。他の人が注意されている内容についても、必ず、「あいつが今言われていること、オレは出来ているだろうか」と自分を「客席から見た視線」で見直してみる。そこで、「あいつよりもオレのほうが上手なはずだから、オレは出来てるはずだよ」と思い込むのは、愚劣なプライドの壁の中に逃げ込んで、全く自分を省みようとしない引きこもり役者の自己満足に過ぎない。自分に省みて、「よし、大丈夫、これなら客席から見ても間違いなくできている」と確信するまで、決して安心してはいけない。全てのダメを自分に向けられたものと受け取って、「大丈夫か?」と、あくまで「客席から見た目で」常にチェックしなければ。自分自身が客席から見る視線を想像できないのなら、誰かしら信頼できる人の意見に素直に耳を傾けるべきなんです。

演出家や、それに類する人たちが投げるダメだしに対して、どれだけ自分のプライドを捨てられるか。どれだけ素直に、虚心坦懐に、自分自身のパフォーマンスを変化させていくことができるか。手を下ろせ、とダメを出されれば、手を下ろせばいい。「あいつは手を下ろさなきゃいかんだろうけど、オレは別なんだよ」なんて、下らない選民意識で自己満足していたって、客はシビアです。「あの人、みっともないカッコしてるね」と客に笑われて終わるだけ。練習会場で自己満足を重ねた結果は、本番会場で客の前で大恥をかく、ということ。練習会場では思いっきり恥をかけばいいんです。

こういう話をすると、「そうですよね、私も(僕も)そうずっと思ってました」なんてしたり顔でうなずいてきたりする役者さんがいるんだけど、大抵そういう人に限って、「オレは分かってるよ。言われなくても分かってるんだよ」と心で思っているのがこちらには分かるもんです。そしてそういう人に限って、言っても言っても馬耳東風で、全然パフォーマンスが変わらない。そういう引きこもり役者にダメを出し続けるのは、演出家にとって、まさに沙漠に水を撒くような苦行に他ならないんだよねぇ。