舞台上のリアリズム

週末、9月のGAG公演の会場になる、調布市民文化会館「たづくり」の映像シアターで稽古。いくつかの感想を。
 
・映像シアターはいい。

今回、いつもGAGの定ハコにしていた浅草橋のホールが、事情があって予約できず、やむなく、地元調布の市民文化会館の、「映像シアター」で上演することにしました。図書館の中のホール、しかも、映像やスライド上演が基本目的のホール、ということもあり、色々と利用制限などもあるし、舞台面自体が結構狭いので、これまではちょっと敬遠していた場所。でも、打ち合わせの段階から、「たづくり」のスタッフのSさんが、「確かにこういう制限がありますが、その制限の中で、こういう知恵を出せばこんなこともできます」と、色々と知恵を絞ってくれました。結果として、思ったよりもずっと「演劇的な空間」を作れそうな感じ。照明設備などはとてもシンプルなんですけど、我々がやりたがっているケレン味のない等身大のお芝居、というコンセプトにはすごくしっくりくる。何より、設備が新しくて綺麗なのが嬉しい。9月18日のGAG公演にご来場のお客様には、是非、映像シアターという場所の雰囲気も楽しんでいただければと思います。

自分の地元で、こんな素敵な場所が見つかった、というのが、今回のGAGの公演の最大の収穫のような気がしています。予約が比較的楽なのも嬉しい。GAGの「演劇」公演だけじゃなくって、例えば朗読パフォーマンスとか、色んな表現に使えそうです。これからの自分の表現の場が、一つ確保できたような気分で、今からワクワク。次はここで、何をしようかな。
 
・車椅子ってすごい。

今回のお芝居では、車椅子に乗ったお年寄り、という役を演じます。詳細は本番会場でご覧いただきたいのですけど、週末の練習では、初めて、車椅子をレンタルしてきて、これに乗って稽古をしてみました。

驚いたのは、ものすごく動きがスムーズなこと。もちろん、ずっとこれで動かなければならないとなれば、腕は相当疲れるでしょうけど、本当に軽く手で車輪を押すだけで、実にスムーズに動きます。逆に、軽く動き過ぎるので、片手でもかなり大きく動いてしまう。片手だけで回すと、当然のことながら、車椅子は回転します。片手で台本持ちながらやってると、直進や後退ができない。要するに、セリフを全部入れないとダメ。わはははは。

週末は、とりあえずこの車椅子の操作に慣れる、というのが主眼の練習になって、お芝居自体の稽古は今ひとつだったのですけど、これからの練習の中で、もっと慣れていこうと思います。
 
・舞台表現のリアリズム

稽古の後で、たづくりのご近所の、「きちんと」という居酒屋で、我が家3人と、はしもとさと子さんと一緒に飲む。バカ話も一杯しましたけど、途中から、舞台上で演じる、ということについて、結構真面目な話もする。

はしもとさんの元師匠の加藤健一さんが、時々プロの声楽家を舞台上で演じられることがあって、確かにすごく頑張ってらっしゃるんですけど、歌だけ取り出すと結構素人歌唱なんですよね。そこの違和感の話をしていたら、はしもとさんが、

「でも、リアリズムを追求すると、結局、その登場人物の職業と同じ職業の人の動作を越えられないですよねぇ」

という話になり、「役者の演技ってなんなんだろうねぇ」という話をしていました。

以前この日記でも書いた、鈴木忠志先生の「鈴木メソッド」によれば、「舞台上での動作は、日常の動作とは全く異なるものである」といいます。実際、舞台上での「ただ立って歩く」という動作と、日常のそれとは全然違います。

百姓が鍬を持って畑を耕している、という演技を舞台上でする。本当に農業に従事している人の鍬の扱い方とは、全然違う動きになるかもしれない。でも、舞台上での身体表現として見た時に、「確かに百姓はこういう動きをするよなぁ」と、観客に思わせれば勝ち。女房も言っていたのだけど、結局、「デフォルメ」ということなんですよね。「リアリズムを追求すれば、本当の動作から離れていく」という現象。

加藤さんの「声楽家」としての演技を見た我々が違和感を感じてしまうのは、「歌」という表現自体にデフォルメが利かないから。例えば身体表現や、セリフ回しや、色んな所作において、「テノール歌手って、確かにこういう動きをするよなぁ」と思わせる「デフォルメ」を加えていくこと。それは歌の訓練をしていない方でもできる「テノール歌手を演じる」アプローチだと思うんです。でも、「僕はテノール歌手です」と言って演じている人が、至極マジメに歌って聞かせた歌が、素人歌唱だとやっぱり興ざめしてしまう。もちろん、加藤さんはちゃんとレッスンを受けてますから、ただの素人歌唱じゃないですよ。でもプロの歌唱じゃない。そこはいくらデフォルメしても追いつかない部分なんですよね。

よく映画で、役者が必死に訓練して、本職も舌を巻くような本格的な動作を見せることがあります。以前もこの日記に書いたけど、昔の映画は、むしろ役者自身のホンモノの「芸」が最初にあって、それを映像に写し取ることが主眼だった。カット割りだのCGといった、役者自身の「芸」や「技」とは違う表現で、その役者を別人に見せようとする技術がすごく発達する一方で、役者自身の個性をそのまま自然に写しとろうとする自然主義的アプローチも一方である。どちらにせよ、役者自身の「演技」=「デフォルメ」に対する努力を、逆に排斥するような動き。そういうアプローチは確かに存在している。

一方で、やはり「演技」=「それらしく見せる技術」をきちんと磨く、というアプローチも厳然として存在している。「Shall we ダンス」とか、「シコふんじゃった」で周防正行さんがとったアプローチというのは、まさに役者を、その身体能力の限界に挑戦させることだったし。でも一方で、彼らは映画の登場人物同様、「素人のダンサー」であり、「素人の相撲取り」だったから、許された部分もあるけどね。

「演じる」っていうのは、決して「なりきる」ことじゃない。「ホンモノよりもホンモノらしい」演技というのがあるはず。その部分を追求していくことで、観客席に、「ホンモノよりもリアリティのある」表現を届けることが、最終的な目的。そのために役者は、人間観察や自分の肉体のコントロール力を高めるのであって、決して「ホンモノになる」ために日々努力してるわけじゃない。なんだか久しぶりに、そんな本質的な議論で盛り上がった飲み会でした。いつもスチャラカやってるわけじゃないんだぞ。