ライブであることの魅力とリスク

先日読んだ日経ビジネスで、大橋巨泉さんが取り上げられていて、彼が、「最近のTV番組がつまらなくなったのは、編集技術が進歩したからだ」とおっしゃっていました。30分番組を収録するのに、何時間もタレントにだらだらとおしゃべりをさせて、その中で面白いところだけをピックアップして番組を作る。タレントの集中力は薄れ、現場もだらける。それでも、番組としては成立してしまう。

大橋さんが現役の頃、27分の番組を作るのに、28分しか録画させなかったそうです。そうなってくると、出演者もスタッフも真剣勝負。TVカメラのアングルを編集するディレクターも、一瞬たりとも気が抜けない。そういう緊張感あふれる現場からしか、いい番組は生まれないのだ、と。「そんな伝説を今でも持っている番組なんか、『徹子の部屋』くらいでしょう」と大橋さんはおっしゃっていて、それはそれで別の意味で笑っちゃった。さすがタマネギおばさま、格が違う。

自分が、舞台表現にのめりこんでいる一つの理由は、この「ライブ」感にある、という話は、この日記でも何度か書いていると思います。小松一彦先生が「カヴァレリア」を指導された時にも、「ライブという芸術を客席に届けるために大切なのは、『空気』を作ること」、というお話をされていました。他にも、「一期一会」という言葉で、この舞台の「ライブ」感覚の魅力について書いたこともあったと思います。

舞台はライブである。だからこそ、一瞬の緊張感、一瞬の高揚感がたまらない。それが、私が舞台表現にのめりこむ理由ではあるのですが、それは逆に、大きなリスクを伴った表現である、ということでもあります。突然看板役者が倒れる、なんていう大きな事故から、小道具がなくなっちゃう、大道具が壊れる、舞台で役者がすっ転ぶ、役者が出とちる(オレも最近やったな(T_T))、色んなアクシデントがありうる。昔、渋谷公会堂種ともこさんのライブを見に行ったら、アンコールで後ろのフットライトが火を噴いて、スタッフが慌てて消火器で消火する、というアクシデントを見たことがあります。歌手のライブなら、MCでなんとか進行可能だけど、オペラや芝居なら即刻上演中止だよねぇ。

要するに、品質が一定しない、ということなんですよね。ガレリア座みたいなアマチュア団体だと、そういうリスクも何もかもひっくるめて、力技でぶっ飛ばしてしまったりもするのだけど、プロの舞台となるとそうもいかない。おのずと、プロの舞台では、様々な形での「リスクヘッジ」を図らなければならなくなります。結果何が起こるか、といえば、コスト高。

例えば、主役が万が一倒れてしまったら、なんてことを考えて、アンダースタディを確保すれば、その人の人件費がかかる。練習回数の足りない役者さんに出のきっかけを出すために、袖に演出助手を控えさせれば、その人の人件費。舞台道具の仕込みとリハーサルに時間をかけようとすれば、会場を相当期間借りないといけないから、会場使用料、設備使用料…多分、TVのような使い回しのきく娯楽に比べて、舞台という娯楽は、時間単価が相当高くなってしまうのではないか、と想像します。

なんでこんなせちがらい話をしているか、といえば、今回お手伝いしている「カルメン」舞台の裏方さんの仕事ぶりを見ていて、なんだか考えさせられちゃったから。埼玉オペラ協会という団体、本当に限られた予算の中で、クオリティの高い舞台を作ろうと一生懸命努力されています。若い演出助手の方に至っては、ギャラがほとんど交通費で消えてしまうような状態でも、「自分の勉強になりますから」と頑張っている。若手の会員さんたちの中にも、「ギャラなし、チケットノルマあり(涙)」なんていう状況下で、舞台の魅力を糧に頑張っている人たちがたくさんいる。

でも、結果的に、今回の「カルメン」の舞台は、彼ら裏方や、出演者の方々の生活を潤すイベントになっていない。確かに、ライブという現場の熱気に身をおく幸福感という報酬はあるけれど、それ以上の価値を生み出していない。世の中、そんな舞台なんてのはそれこそ掃いて捨てるほどあるんでしょうけど、どこか割り切れない気分が残る。

加藤健一さんが、加藤健一事務所の舞台でやろうとしたことは、「舞台はビジネスとして成立するんだ」ということを証明しようとしたことだそうです。舞台人というよりも、ビジネスマンとして成功している浅利慶太さんのような方もいらっしゃいます。でも、日本で上演されているほとんどの舞台は、今回の「カルメン」の関係者さんのような、採算を度外視した情熱で支えられている。

もちろん、そういう情熱に対して、「文化発信」という公共的な意味付けを行って、各種の助成金を用意している公共団体や自治体は沢山あります。でも、そういう組織の審査は、往々にして官僚の無理解や、マスコミ受けするビッグネームにおもねる付和雷同、あるいは政治家や人的コネといった不透明なプロセスにまみれていく。有名政治家が会員になっているというだけの理由で、潤沢な資金を手にしている音楽団体なんか、掃いて捨てるほどあるんでしょう。

そうなると、結局一番健全な形というのは、「観客が支える」ということなんでしょうね。記事は読んでないんだけど、読売ウィークリー(だったと思うんだが)の吊り広告に、「日本のクラシックファンは人口の1%」という文章が出ていました。どういう集計の仕方をしたんだか、なんだか眉唾な数字だけど、「自分はクラシック愛好家です」と胸を張って言える人(そういう人もなんだか胡散臭いけど)は、確かにそんなもんかもしれない。根本には、オペラ舞台を見に来る人が、それくらいの人口でしかない「クラシックファン」に限定されてしまっている、という閉塞状況がある気がするし、そういうオペラ関係者の危機意識みたいなものを耳にすることも結構あります。

クラシック愛好家でなくても全然いいんです。舞台はいいもんです。今回の埼玉オペラ協会のような、プロの見事な歌唱が楽しめるオペラ舞台もいい。下北沢の小さな劇場で、シンプルな舞台装置と少人数の役者で作る濃密な舞台もいい。歌舞伎座の華やかなお芝居体験もいい。もちろん、ガレリア座の舞台だって楽しいですよ(宣伝)。

そういう、舞台、という表現形態に共通しているのは、今のTVや、作りもののCG映像にまみれた映画にはない、本物のライブ感覚です。もっと多くの人たちが、この「ライブ」の楽しさを実感してくれて、日本の中に、舞台やショウが、日常の娯楽としてもっと定着していけば、床に這いつくばってバミリテープを貼っている若い裏方さんの生活も、もう少しましになるんじゃないのか…なんて思うんですが。もちろん一方で、「オペラというのはそういうシモジモの方々がTシャツとGパンで楽しむような、お下品な娯楽ではありませんことよ」なんていう、「クラシックファン」あるいは「クラシック音楽家」の基本意識にも問題があるんでしょうけどねぇ。