ねじまき鳥クロニクル〜絶対的悪の再登場〜

今週末の「カルメン」の本番を前に体調が怪しくなってきました。朝起きると鼻の奥がひりひりする。典型的な風邪の症状。にも関わらず、昨日は、今回の助演陣と、伊藤さん、演出助手のKさん交え深夜まで飲んだくれてしまったので、頭まで痛い。仕事に支障が出始めているよ。頑張らないと。

さて、今日は、以前から読まねば、と思っていて、先日読了した、村上春樹さんの「ねじまき鳥クロニクル」です。

村上春樹さんという作家は、何度かこの日記にも取り上げていますが、クールで醒めた文体が魅力の作家、と以前は思っていました。レイモンド・チャンドラーのようなハードボイルド作家と並べて考えていたりして。

でも、「ノルウェイの森」で一旦幻滅してしまって以降の作品を、最近再び読み始めてみて、さらに昔の作品を思い返してみると、彼の作品が、その時代の精神、というか、その時代に対する村上春樹さんの私的な思いのようなものを、色濃く反映しているような気がしてきました。1995年の阪神大震災地下鉄サリン事件を境に、村上さんの作風が大きく変化したのは事実なんだけど、それは時代そのものの空気が、あの年を境に大きく変化したことを色濃く反映している。つまりは、村上さんというのは、その時代における「人が意識していない空気」のようなものを表現するのが天才的にうまい人なんでしょうね。時代を突き放して描いているようで、実は、時代そのものの奥底にしっかり根を下ろしている。同じように時代を読む天才である村上龍が、あくまで物質的な側面から時代に切り込んでいくのに対して、村上春樹は常に、「その時代の無意識」に切り込んでいく。

ねじまき鳥クロニクル」で描かれ、私にとって最も強烈だったのは、そこにある「絶対的悪」の描写です。「皮剥ぎボリス」と「綿谷ノボル」は間違いなく底流でつながっており、その存在は、生理的嫌悪感すら感じさせるまでに絶対的な悪です。人の精神を徹底的に損ね、汚しながら、自分自身は超越的な力に守られているもの。

私自身の子供時代、こういった「絶対的悪」を否定するところから、色んな新鮮な表現が始まっていた気がします。一世を風靡した「宇宙戦艦ヤマト」や、「機動戦士ガンダム」などのアニメは、戦争という行為における大義を否定し、「絶対的な正義なんか存在しない」と正義を相対化するために、反対概念である「絶対的悪」を相対化し、弱体化させました。その後、「絶対的悪」は、子供向けアニメの片隅や、あるいはハリウッドのエンターテイメントの中で、極めてカリカチュアライズされた形でのみ生き延びていたように思います。

同じ村上春樹の、「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」という作品においても、主人公が戦う相手は、超自然的な権力だったりしましたが、そこに「絶対的な悪」という印象は薄かった。しかし、1994年に書かれたこの「ねじまき鳥クロニクル」において、村上春樹が提示した「絶対的悪」は、そういうカリカチュアライズされたものではない。確かに、「誰だって綿谷ノボル的なものを抱えている」という意味での相対化された悪ではあるのだけど、「皮剥ぎボリス」の描写や、綿谷ノボル自身の描写の中には、誰もが無意識の中に抱えている悪、という存在を超えた、どこか超越的な「悪」の存在を感じさせるものがある。

この本が、94年から95年にかけて書かれた、というのは、そういう意味でものすごく象徴的なことのように思います。95年に起きた、地下鉄サリン事件や、阪神大震災で我々が学んだことは、我々の意志とは別のところで、何かしら超越的な、どうしようもない巨大な破壊欲求のようなものが、この世界や、人間の心の中に存在しているのだ、ということでした。我々のつかの間の幸福自体が、そういう極めて形而上学的な悪意によって、一瞬で破壊されてしまう可能性について、95年当時の我々は思い知らされたのです。

失われ、損なわれた精神を復活させ、次へとつながる命の鎖を再び結ぼうとするために、主人公はバットを手に、暗闇の中で、その形而上学的な悪意に対して戦いを挑みます。ラストシーンでは、命の甦りが暗示されますが、絶対的な悪が本当に消え去った安心感はありません。傷が完全に癒えることもない。この絶対的な悪は、子供向けアニメに登場するようなカリカチュアとしての悪ではなく、もっと重厚な存在感と圧迫感を持って、読者に向かって迫ってきます。

そういう意味で、「ねじまき鳥クロニクル」は、同じ作家の「アンダーグラウンド」や、「神の子ども達は皆踊る」に通じる、世界の不条理に対する戦いの序章のような作品だったのかも、という気がします。ねじまき鳥がねじを巻くたびに繰り返される善と悪の闘争。その戦いは、池澤夏樹の描き出す牧歌的な、アジア的な闘争ではなく、大江健三郎のような土着の神話的闘争でもない、もっとエッジの立った、都会的な、極めて先鋭的な闘争のような印象を与えます。

個人的な好みでいえば、以前の「羊をめぐる冒険」のセンチメンタリズムの方が好みだったりしますし、池澤夏樹さんの「花を運ぶ妹」の緩やかな神々同士の闘争(というか、ゲーム)の方が疲労感が少ない気はする。でも、「ねじまき鳥クロニクル」に描かれた殺伐とした精神世界での闘争こそが、現代社会を反映しているものなのかも、という思いは残ります。村上春樹さんの色んな作品の中でも、とりわけ、絶望感と恐怖感、一種のペシミズムのようなものさえ感じさせる本でした。ちょっと疲れる本だったなぁ。