「ママがプールを洗う日」〜80年代のアメリカの健全さ〜

1980年代というのは、アメリカがすごく暗かった時代、という印象があります。日本が経済的な繁栄を謳歌する一方で、米国流経営が国際競争力を失い、軍事的にもソ連の後塵を拝し、あらゆる分野で米国が自信を失っていた。そして、半ばヤケクソのような形で、俳優上がりのレーガンが大統領に選ばれ、ヤケクソの延長のように「強いアメリカ」を志向していく。ポップカルチャーサブカルチャーの世界にはAIDSの恐怖が忍び寄り、色んなところで、破滅への予感のような、なんだか非常に重苦しい、暗い雰囲気が漂っていた気がする。

先日、うちの女房が昔購入していた「ママがプールを洗う日」(作ピーター・キャメロン 訳山際淳司)を読了。女房が、「なかなかいい本なんだよねぇ」と以前から言っていたので、やっと手にとって見る。80年代の米国を覆っていた閉塞感と絶望感を、様々な人間関係の中で活写した短編集。

山際淳司さん、というのは、スポーツドキュメンタリーの分野に革命を起こした人、と言う風に認識しています。「江夏の21球」という伝説的な名作を初めとして、彼のスポーツドキュメンタリーは何本か読んでますけど、どれにも共通するテイストがある。それは、「根性」とか「規律」といったウェットな浪花節的精神論や外から与えられた秩序ではなく、自分の内にある「美学」にひたすら忠実であろうとするスポーツマンの美しさです。山際さんの文章自体も、硬質で乾いた美意識に貫かれている。自然、「ママがプールを洗う日」にも、ウェットな文章は一切出てきません。全てが乾いた客観的な記述。そんな乾いたタッチで語られる人間関係に対する絶望感は、乾いているだけに切れ味が鋭い。突然目の前を通り過ぎた鳥の一瞬のはばたきが、網膜に鮮やかな残像を残すような、そんな鮮烈なイメージ。

同じような乾いた絶望感、あるいは閉塞感のようなものは、この時期の米国の様々なソフトで顔を出しているような気がします。加藤健一事務所で上演されることの多い、アメリカの良質のお芝居や、ジョン・アービングの小説のテイストなんかにも通じる気がするんですが、この頃の内省的なアメリカのカルチャーにはなんだか共感するものがある。映画「ターミネーター」の絶望的な未来観。「クラウド9」とか、「エンジェルス・イン・アメリカ」が語る絶望と再生の物語。村上春樹が翻訳したレイモンド・カーヴァの短編集の乾いた絶望。

こういう80年代の米国のカルチャーは、「病んだアメリカ、悩めるアメリカの精神状態が反映されている」と言われるんだろうな、と思います。でもねぇ。最近のアメリカのやることなすことと比べてみると、随分健全じゃないか、と思っちゃうけどね。やっぱり、「オレは正義だ」とか「オレが絶対だ」なんて言い出して、自信たっぷりに握手求めてくるような人たちってのは、どうも胡散臭くて好きになれないわけです。最近のアメリカはそういう胡散臭さにまみれている感じがするんだけど、80年代のアメリカはそうじゃなかった。この「ママがプールを洗う日」に出てくる人たちも、誰も彼もが、他者とのストレートなコミュニケーションをとることができないでいる。そんな自分に自信もないし、他者にすっかり依存することもできないで、ただ立ちすくんでいる。

自信に充ちた完璧なヒーロー、というのは憧れの対象であっても、決して現実的なものじゃない。現実にそんなものがいたら、鬱陶しくて仕方ない。むしろ、悩める人々の方が親近感が湧くし、共感できる。今のアメリカには、どうも「オレはカンペキさ」と白い歯見せて笑っている筋肉ムキムキのマッチョ男、みたいなイメージがあって、健全さを感じないんだよねぇ。