たとえ世界が不条理であったとしても

人間、どれだけ社交的な人でも、色んな価値観や、色んな好みがしっくり一致する友人、というのは中々いません。それ以外にも、人間の相性というものには、その人が持っている生理的なテンポ感とか、ペースとか、テンションとか、色んな要素があるものだと思います。そういう「相性」がぴったりする友達に出会うのは、結構難しいことだったりする。友達、といえる人は結構いても、親友、と呼べる人っていうのは少ないもの。「親友」になれるかなれないかには、こういう生理的な要素が結構影響してるんじゃないかな、という気がします。

子供にもそういう生理的な「相性」というのは明確にあるように思います。うちの娘も、両親に似て結構マイペースなものだから、幼稚園のお友達のペースに合わせているのが、ちょっとしんどくなることがあるようです。放課後に遊んでいる姿を見ていると、お友達と一緒にひとしきり遊んだあと、ふっと集団から離れて、自分ひとりだけで延々遊んでいたりする。どのお友達とも楽しく遊んでいるのだけど、時々自分のペースを取り戻したくなるんですかね。

そんな娘ですが、年中さんの頃から、一人、とても「相性」のいいお友達がいました。好きな遊びも同じ。遊ぶペースも一緒。一緒にいて、一番気持ちが落ち着くみたいで、子供部屋に二人で籠もって、何時間も何時間も一緒に遊んでいたりしたそうです。母親同士も気があって、それぞれがばたばたと忙しいときには、子供をお互いのおうちに預けたり、何かと行き来のあった、一番のお友達でした。

そのお友達が、先週の日曜日、亡くなりました。

脳腫瘍でした。

初夏の頃に判明。腫瘍の位置が悪すぎて、手術不能と言われ、数ヶ月の闘病生活。

卒園式に、なんとか出席できたら、という、みんなの祈りも、届きませんでした。

昨日、女房と娘が、お別れに行ったそうです。沢山のおもちゃやお人形に囲まれて、本当に安らかな寝顔だったと。

娘はなんども、お友達のほっぺたをさすっていたそうです。
 
昨夜、娘と少し話をしましたが、娘は、「もう別の話をしようよ」と、この話題には触れたがりません。自分が理解している部分と、大人のショックの大きさの間のギャップが、自分の中で消化しきれない、という感じかな、と思います。「じゃあ、もうこの話は止めようね。でも、一つだけ、約束してくれる?」とお願いをしました。「Fちゃんが天国に行ってしまって、みんな泣いてたでしょう。パパやママがあんなふうに泣かないで済むように、元気で、一杯長生きするんだよ。それだけは、約束してくれる?」

残酷な神様の前で、そんな約束がどれほどの意味を持つのか、私にはなんとも言えません。でも、ちいさな頭でこっくりうなずいてくれた娘を抱きしめながら、逝ってしまった命のために、生きている自分ができることは何か、今、ひたすら考えています。

世界は不条理です。何の罪もない、何の穢れもない小さな命が、理由もなく奪われてしまう。このあまりの不条理の巨大な力を前にして、気力も体力も失ってしまって、ただ無為に立ち尽くしてしまいたくなる。何をやっても、何を生み出しても、この圧倒的な不条理の前に、自分の無力さをひたすら実感するだけなのだとしたら、何かを生み出していくことにどんな意味があるんだろう。

それでも、そんな風に立ち尽くしていたくない。こんなにも不条理な世界に向かって、我々ができることが、何一つないとは思いたくない。自分ができることが何かあるはず。生きている命、今生きている命に向かって、自分が伝えられるものが何かあるはず。たとえ世界が不条理であったとしても、その世界に、少しでも幸福な時間を届けるために、自分ができることが何かしらあるはずなんだ。そうやって考え続けることが、そうやってあがき続けることが、逝ってしまった命に対するせめてもの誠実なのだと信じて。

この不条理に充ちた世界の中で、こうやってじたばたとあがいている我々を、天使になったFちゃんは、ずっと見守ってくれるでしょうか。こんなに短い間だったけど、たくさんたくさん遊んでくれてありがとう。天使になってしまっても、いつまでもいつまでも、娘の親友でいてね。