ジョン・レノンの肖像

今朝、ニュース番組を見ていたら、いきなり、「イマジン」が流れ出し、ジョン・レノンポートレートが映し出されました。今日は25年前、ジョン・レノンが射殺された日。もう25年になるのか。大阪の地下鉄のコンコースで、柱にべたべたと張り出された号外の前で、友人と一緒に呆然としたことを思い出します。

そのニュースを見ながら、ちょっと不思議な気がした。生前のジョン・レノンの映像がいくつか流れたのですが、その中に、一枚も、ビートルズ時代のポートレートが出てこなかったんです。ビートルズ以後のジョン・レノンの映像ばっかり。曲も、「イマジン」と、「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」の二曲。ビートルズ時代の曲は一曲も流れなかった。

ジョン・レノンが暗殺された25年前、マスメディアが彼を回顧する映像は、大半がビートルズ時代のポートレートや曲だった記憶があります。もちろん、彼の久しぶりの新作だった、「スターティング・オーヴァー」からの曲も流れましたが、ジョン・レノン、といえば、「ビートルズ」というのが、当時の図式だった。つまり、ジョン・レノンといえば、「ヘルプ!」であり、「ストロベリー・フィールズ」であり、「ルーシィ・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド」であり、「ビートルズ」だったんです。

25年たって、そういう図式が崩れ、ジョン・レノンといえば、「イマジン」になった。そしてマスメディアが流す映像も、オノ・ヨーコと穏やかに歩く中年のジョン・レノンであり、マッシュルームカットのアイドル映像ではなくなっている。その変化の原因は、いくつかあると思いますが、私が思いつく理由は、以下の4つです。

1つは、25年という時を経て、ジョン・レノンという人物の本質はどこだったのか、という理解が深まってきたこと。ビートルズ時代のジョン・レノンというのは、ポール・マッカートニーという稀代の天才作曲家と拮抗する、もう一つの天才として語られる。つまり、ビートルズ時代のジョン・レノンというのは、ポールとセットで語られる存在である。「ジョン・レノン」という人を単独で語ろうと思ったら、やっぱりビートルズとは切り離して語るべきだ、という認識の深まりがあったのかも。

2つめはもっと実際的な理由で、ビートルズ時代の映像や楽曲の著作権の問題なのかしれない。今、この著作権を持っているのは、確かマイケル・ジャクソンですよね。ジョン・レノンを単独で取り上げるときに、ビートルズという団体の楽曲や映像の著作権料を払うより、ジョン・レノン単独の著作権料を払った方が安上がり、という理由があるのかも。

3つめ。そういう現実的な理由もあるかもしれないけど、受け取る側の「現代」という時代そのものが、ビートルズ時代のアイドル歌手としてのジョン・レノンではなく、「Love&Peace」を唱え続けた平和活動家としてのジョン・レノンを求めている、というのが、すごく大きい理由のような気がします。NYテロからイラク戦争に至る過程で、戦争に反対する人々が、「イマジン」を歌う姿が至るところで見られた。時代がまさに、ビートルズ以後のジョン・レノンを求めている。実際、今朝のニュースで流れた、「イマジン」「ハッピー・クリスマス」という選曲自体、世界中で絶えない戦争状態の終結を祈る人々の願望を表現している。

そして4つめ。これが一番感じたことだったんですが、25年前、マスメディアにとっても、我々にとっても、まだ、「ビートルズ」は生々しい現実だった、ということ。ジョン・レノンが死んだ時、私がまず感じた感慨は、「ああ、これでもうビートルズの再結成はないんだ」ということでした。同じ感慨を持った人は多いと思う。それだけ、事件を受け取る我々の側が、「生のビートルズ」と、当時の聴衆の熱狂を、直接なり間接なり「体験」していた。その「体験」の記憶が、ジョン・レノンを見るときに、「ビートルズジョン・レノン」として見せていた。

もっと言ってしまえば、マスメディアがある対象を取り上げるとき、そのマスメディア自体がその対象に持っているイメージが、取り上げ方に色濃く反映してしまう、ということ。25年を経て、TV番組の作り手の側にも、「ビートルズ体験」を知る人々が減ってきた。そういう人々にとって、ジョン・レノンは、現代社会がまさに求めている「Love&Peace」の提唱者であり、その理念の只中で凶弾に倒れた英雄、としてとらえられる。それは実際その通りなんだけど、現代から見た、そして現代が求めている、ジョン・レノンという人物の一面に過ぎない。

いきなり話が低俗になりますけど、ある時、歌舞伎座の前を歩いていたら、公演の垂れ幕を見ながら、若いカップルが、

松本幸四郎って、松たか子のお父さんだよね」

と言っているのを聞いて、コラコラ、と思ったことがあります。逆だよ。松たか子が、松本幸四郎の娘なんだよ。でも、受け取る側の世代が変わっていくと、人物のとらえ方はどんどん変化していく、という、すごく分かりやすい例のような気がします。私の義父(女房の父)なんか、「クライバーが死んだって、あの(エーリッヒ)クライバーの息子か」なんて言ってたもんねぇ。おいおい。

「マスメディアの視線の変化」「受け取り手の視線の変化」によって、一人の人物のとらえ方がこんなに変化していくのか、と、25年という時の流れを実感しました。要するに、オレも年をとったなぁ、という感慨ですね。とほほ。