ダブルスタンダードの終焉〜その先は?

最近はどのテレビを見ても、どのニュースを見ても、耐震強度偽装問題で大騒ぎですねぇ。今回のニュースを聞いて、我が家でも、「うちは大丈夫だろうねぇ」と不安になる。きっと誰もが同じような不安を抱えているんでしょうねぇ。だからこのニュースが、これだけ大騒ぎになるんでしょう。「絶対、他の業者も、同じようなごまかしをやっているに違いない」という不安感。私も、「こんなゴマカシ、絶対どこでもやってるよねぇ」と女房と話してました。

なんで、「絶対どこでもやってるよねぇ」と思うのか、と考えてみると、日本が、いわゆる「本音と建前」というダブルスタンダード社会である、というところに行き着く気がします。日本だけじゃないと思いますけどね。米国のダブルスタンダードなんて呆れるほどだし。でも日本は、「建前はそうかもしれないけど、そんなの守ってたら生きていけないだろう」という本音が、結構幅を利かせていた社会。それが崩れてきているんですねぇ。

耐震強度を保証する証明書を行政から発行してもらうために、書類一式を作って提出する。行政はその書類をチェックし、問題なければ、耐震強度を保証する公的書類を発行する。建前として存在している「美しく完結した」システム。でも、実際にこれを運用するとなると、実は、「融通」とか「信頼」という恐ろしくファジーな要素を入れていかないと、運用できない。

今回の件も、検査会社の社長がいみじくも、「膨大な数字が計算された計算書の全てをチェックすることなんか不可能です」と言い切ってましたよね。とすると、提出された書類を「信用」するしかない。内容は信用して、あと役所がチェックすることといえば、「書式に記載されるべき業者の氏名や住所が正しく記載されているか」なんていうどうでもいい形式部分だけだったりする。そういう行政手続きなんて、他にもきっと一杯あるんです。

厳しいコスト削減、サービス競争、価格競争の中で、「法律やら建前守ってたら経営が成り立たない」という本音で、そういう「信用」関係や、会社の遵法精神を信頼して成り立っている建前なんか、あっというまに崩れます。でも、「それが本音だよねぇ」と許してくれていた社会が、それを次第に許さなくなっている気がする。それが以前この日記にも書いた「コンプライアンス」意識の強化だったり、今回の耐震強度問題だったりする気がします。

個人的には、本音と建前のダブルスタンダードが、人間の命に関わる部分で適用される今回のようなケースについては、とことん「大騒ぎ」してほしいと思う。行政側のチェックの不備が指摘されていますけど、ただただ量的な「小さな政府」を標榜するのではなくて、こういう重要なチェック機能には充分予算をつけるといった、質的な議論を進めてほしいと思います。

でもね、「本音と建前」のダブルスタンダードがなくなってきて、全てが法律や行政で規制される世界、というのも、果たして理想の世界なのかなぁ、という気がします。もちろん、消費者側には、自分が購入する物件やサービスの安全性を見極める力なんかないですから、どこかで行政や公的機関の「保証」をあてにしないとダメなんだけどさ。「保証」がないとサービスを提供しない、と言われてしまうと、随分不自由になる気がする。「保証なんかなくても、リスクは自分で負うから、このサービス提供してよ」と言いたくなることだってある。米国牛肉が危険なのはわかったけど、危険を承知でも吉野家の牛丼が食べたい、とかね。

近所の友達の大工さんに、「うちの家建ててよ」とお願いしたら、「あいよ」と建ててくれた昔なら、その大工さんが信用できるかどうか、という「人間関係」が判断の基準でした。そういう究極のファジーな時代に戻るわけにもいかないから、あとは徹底的な情報開示と、開示された情報を消費者側が分析し、リスクを承知した上で行動できるように、ひたすら「賢い消費者」になるしかないんでしょうねぇ。

本音と建前のダブルスタンダードの先にある社会は、ひたすら公的規制でがんじがらめにする社会なのか、それとも、賢い消費者だけが生き残る競争社会なのか。どちらがいいんでしょうか。そんなことを考えている私の日記を、会社のPC使って書き込んでいる、と言うこと自体、建前上は許されてないことなんですよねぇ。