ダウンサイジングできないんかね

たまには時事問題、といいつつ、経済素人の独り言。

米国金融機関への公的資金注入、なんて話が出てますけど、誰かの文章で、

「要するにバブルの温存である」

という文章を読んで、そう言われればそうだな、と思う。

不動産バブル、ITバブル、そして米国のサブプライムバブルと原材料バブル、という形で、日本で生まれた80年代のバブルはずっと温存されてきている。実体経済と遊離してオカネの総量だけが膨れ上がる。実体経済との乖離が表面化してバブルが弾け、経済全体が縮小するのに、オカネの総量は変わらない。変わらないどころか、公的資金を突っ込んだり低金利でどんどんオカネを刷ってオカネの総量を増やしたりする。維持されたバブルは、新たな投機対象に向かって移動していく。金融バブルが弾けた後は、環境バブルになるんですかね?すでにそういう兆候が見えている気もするなぁ。

バブルを維持するための公的資金は、実体経済からは生まれてこないので、将来から、要するに、僕らの子孫から前借りする。それが赤字国債。バブルを消さない限り、赤字国債は膨れ上がり続け、僕らの子孫は生まれた時から多額の借金を背負って暮らさねばならない。誰もが、どこかでこのバブルの連鎖を断ち切らないと、と思っているのに、誰も手が出せない。

数日前の日記で、「積みあがる時間」という感覚が、現代の閉塞した精神世界を反映しているのでは、ということをチラッと書いたのだけど、ここでも同じような閉塞感が漂う。問題を文字通り「先送り」して、子供や孫から借金をして現代の繁栄をむさぼる、と言う状態が健全なわけはないのだけど、あまりにも膨れ上がりすぎた怪物のようなバブルを退治することもできず、ひたすらオカネを積み上げていくしか方策がない。

じゃあ、「徳政令」みたいに、一切の借金を棒引きにして、実体経済とオカネの規模を一致させればいいんかい、というと、確かにコトはそれほど簡単じゃない。国債棒引きによってその国の信用が失われれば、貨幣の信用が失われてインフレが起こる。結果として、オカネの相対規模が下がって実体経済と合うからいいんだけど、それって結局、大幅に経済規模自体を縮小させる、ということ。

江戸時代があれだけ長く平和だったのは、意図的に経済成長率を低く抑えていたからじゃないか、という話もあるみたい。享保の改革天保の改革寛政の改革、どれにも共通しているのは、豪奢の抑制、ということで、全体の経済規模を縮小させる引き締め政策を取ることで、バブルの発生を抑えよう、という政策。江戸時代というのはそういう意味で、極めて継続性=サスティナビリティの高い時代だった。簡単に言えば、「成長への神話」を持たず、「現状維持」を基本とする社会だった。

なんか、そういう社会もいいな、と思うんだよね。そんなことを言うと、途上国の人たちには怒られちゃうんだろうけどさ。資本主義社会における企業は、常に、昨年よりも成長した今年、今年よりも成長した来年を求められる。でも、永続的な成長、なんてのは机の上にしか存在していなくて、偏在する成長や実体経済自体のもつスケールの限界にぶちあたって、必ずバブルを生む。「常に前進、常に成長」と言われ続けることに疑問を感じている人たちもいるはずなのに、ブレーキの壊れた機関車のように資本主義という怪物の暴走が止まらない。

いまさら、江戸時代には戻れはしないんですけどね。でも、公的資金注入だ、そのための赤字国債だ、プライマリーバランスの達成なんてのは二の次だ、なんて話をイヤになるほど聞かされると、走り続けている足をどこかで止めてみたくなる。昨日と同じ今日、今日と同じ明日を迎えられることの幸せ・・・「知足」ということを考えてみてもいいんじゃないかな、なんて気分になりますよね。