「カヴァレリア」〜マリアになれなかったマリアの物語〜

大田区民オペラ合唱団が出演した「カヴァレリア・ルスティカーナ」の本番舞台が終わりました。この日記でも紹介していましたけど、演奏会形式、と言いながら、舞台上の奥にオケを配置し、前面に広い演技空間を作って、ほとんどオペラ同様の舞台空間。逆に、オケピットの下のオケを越えて客席に声を飛ばさないといけないオペラ舞台と違って、歌い手と観客の距離がすごく近く、かえって臨場感あふれる舞台になったような気がします。

本番舞台というのは面白いもので、練習の時には頭に浮かばなかったイメージやアイデアがふっと浮かぶことがあります。今回の舞台でも、復活祭のお祈りの歌を歌いながら、孤独にさいなまれるサントゥッツァを合唱が凝視する、というシーンがあり、そこでふっと頭をよぎったイメージがありました。「サントゥッツァは、マリアになれなかったマリアなんだね」。

サントゥッツァが教会から罰を受けたのは、トゥリッドゥと結婚式を挙げていないのに内縁関係にあるからだ、という話です。原作の戯曲を読んでないんですけど、多分、サントゥッツァはトゥリッドゥの子供を流産したのじゃないかなぁ、と勝手に思っています。もしも、サントゥッツァの産んだ子供が健やかに成長していたら。そしてトゥリッドゥが、その子供を受け入れていたら。処女懐胎、なんて奇跡を背負う必要はないにしても、サントゥッツァは母性の故に、聖母マリアになれたかもしれない。

でも、サントゥッツァとトゥリッドゥは、マリアとヨゼフにはなれなかった。子供が失われた二人の間には、夫婦の絆も生まれず、真っ直ぐな愛情の交歓も生まれなかった。サントゥッツァ役の持木文子さんが、合唱の凝視を受けて、ぼろぼろ涙を流している姿を見た時、聖母マリアが象徴する母親にも妻にもなれなかったサントゥッツァの哀れさが胸に迫って、あの合唱曲はどの練習の時よりも熱く歌えた気がします。力のあるソリストさんというのは、合唱団も含めた舞台の雰囲気を体一つで引っ張り上げるパワーがある、ということを実感した場面でした。

前半の「カヴァレリア」が終わった後、舞台衣装にジャケットをひっかけて、後半の「青ひげ公の城」を見る。これも素晴らしいオペラですねぇ。伊藤明子さんの演出と、成瀬一裕さんの照明は、演奏会形式という形式を逆手にとって、この象徴に充ちた曲を、鋭利で無駄のない抽象的な光と闇で切り取ってくれる。それでいながら、オペラ的な極めて劇的な効果を、客席に向けて放たれる黄金色の光や、静謐な泉の効果光で表現する。小濱妙美さんと山口俊彦さんも素晴らしい熱演でした。

ガレリア座で舞台を作るときにも悩むことなんですけど、オペラの舞台、というのは、具体的な物体で舞台上を埋め尽くそうと思うと、いくらお金があっても足りない。それこそMETやスカラ座新国立劇場といった一流のオペラ座にしか許されない贅沢なんです。となると、アマチュア舞台では、どこかしら具象をカットした抽象的な表現に頼らざるを得ない。その抽象化の過程で、演出家の作品に対する解釈の根幹が見えてくる。

とすると、意外と、予算がなかったり、今回のような演奏会形式の舞台の方が、作品の本質がくっきりした、エッジの効いた舞台になったりする。もちろん、本質をしっかりと捉えた上で、大胆な抽象化を自信を持ってできる優れた演出家がいてこそ、そういう舞台が出来上がるわけですけど。

今回の演奏会では、こんな制約の中でも、こんなに劇的な表現ができるんだ、という、舞台表現の可能性の高さについて改めて実感させられました。ソリストの方々、打ち上げ会場で一緒に写真をとってくださった小松一彦先生、山口悠紀子先生を初めとする制作スタッフの皆様、舞台監督の伊藤ひでみさん、アプリコのスタッフの皆様、合唱団の仲間たち、トラの方たち、オケの方たち、皆さん本当にお疲れ様でした。そして何より、こんなエッジの効いた舞台を作り上げた伊藤明子さん、ありがとうございました。

また一つ、本番舞台が終わりました。最後の一瞬まで、新鮮な驚きに充ちた、楽しい舞台でした。舞台っていいなぁ。ほんとにいいなぁ。