「櫻姫東文章」〜「因果」に対してポジティブであること〜

日本人、というのは、海洋民族なのだ、というのを認識した方がいいのかも、と時々思います。それも、北の凍てついた海ではなく、南海の暖かい、命の充ちた海。海は深く死を内包した巨大な恐怖であると同時に、豊穣な命の源でもある。そういう海を精神の土壌とする民族というのは、非常に陽性の気質をベースに持つのではないか。

もちろん、日本人の精神風土には非常に陰湿な農耕民族としての文化が脈々と存在しています。従来、日本人論を語るとき、島国の閉鎖的な「ムラ」意識を強調する形で、「農耕民族」としての意識が強調されているように思います。でも、実は日本人は、もっと陽性の、もっと開放的な海洋狩猟民族の文化をちゃんと持っているんじゃないだろうか。大陸の稲作文化と、南方海洋からの狩猟文化が交流するところで発達した日本文化には、大きく2つの底流がある。そのどちらについても等価に語られるべきなんじゃないだろうか。

同じようなことは、日本文化における、「縄文文化」と「弥生文化」という形で論じられてきたことがあるように思います。かつて、「縄文文化」というのは、飢餓線上を彷徨う不安定な生活の中で、生きていくだけで精一杯、という未開の文化として位置づけられていた。でも、極めて豊かで、かつ非常に広い活動範囲を想像させる縄文遺跡が、東北を中心に次々に発見される中で、「縄文文化」の豊穣さ、というものにも注目が集まっている気がする。

卑近な話をすれば、例えばラテンアメリカの陽性の文化である、サッカーやサンバといったソフトが、日本で受け入れられやすい、というのも、そういう「陽気な日本人」の源流と関わっている気がする。あと、明らかに海洋文化である沖縄の各種ソフトが、非常な親近感を持って本土の人々に受け入れられている、という状況もある。日本人といえば、眼鏡のビジネススーツのサル、というイメージがあるけど、そもそもの日本人は、もっと陽性で、もっと祝祭的な文化を持っていたのじゃないかな。

なんでこんなことを考えたか、というと、昨日、図書館で借りてきた「櫻姫東文章」という歌舞伎の台本を読了したから。歌舞伎、というソフトそのものが、非常にラテン的な祝祭的ソフト。そして、「櫻姫東文章」は、「因果」という日本的な「運命」「宿命」に翻弄されながらも、最後まで前向きに、陽性にそれに立ち向かっていく櫻姫というキャラクターが実に魅力的。話自体は本当にヒサンな話なんですが、櫻姫はそんな自分の運命にただ泣きくれるわけでもなく、自分自身で自分自身を再生させていく。非常に強靭な生命力を感じるキャラクター。

同じような「運命」「宿命」を描きながらも、ギリシア悲劇シェイクスピア悲劇のようなじっとりした陰湿な、救いがたい物語にならない。どこまでも祝祭的で、どこまでも華やかで、かつ生命力にあふれている。辛気臭いのを嫌った江戸っ子の軽やかさなんでしょうか。

個人的には、ラテン系の人ってのは、陽気でいい人が多いんだけど、仕事で付き合うとかなりいい加減なことが多いので困るんだけどね。日本人もラテン系になってくるのは嬉しい気もするんですが、日本人らしい几帳面さまでラテン系になっちゃうと、ちょっと困るなぁ、と思っちゃう。