「柳橋物語・むかしも今も」〜逆境の中での真情〜

昨日の日記で、「制約の中でこそ、逆に価値ある芸術が生まれるのかも」という話を書きました。最近、こういうことをよく考えます。NHKで放送したドラマ「ハルとナツ」の感想にも書きましたけど、逆境や苦難の中で明らかになる人の真情、というものがある。経済的な貧しさの中でこそ得られる人と人との心のつながり、というものがある。現代日本の経済的豊かさと物質的な平和が、かえって精神的な貧困を招いている、というのはよく言われる話。だからといって、現代の我々にできるのは、そんな貧しかった過去を回顧して、「昔はよかったよね」と愚痴ることしかないのか。今日、山本周五郎の「柳橋物語・むかしも今も」を読了して、さらにそんな思いを強くしました。

柳橋物語」も、「むかしも今も」も、江戸時代の下町を舞台にした、愚直なまでに自分の真心を貫き通す生き方についての物語。物質的には決して恵まれず、時には天災で生死を彷徨いながら、誠実な生き方の中で、精神的には満ち足りた幸福をつかんでいく登場人物たち。そこには、周五郎作品の全てに共通する、まさしく愚直なまでの人間存在への信頼感が貫かれている。それは同時に、終戦直後の日本人に対する一つの強烈なメッセージになっている。戦火の中を逃げ惑い、全てを失って呆然とする日本人に対して、物質的な幸福はなくても、愚直に誠実な生き方を貫いていけば、必ず幸福が訪れるのだ、というメッセージ。

谷川俊太郎の詩に武満徹が曲をつけた合唱曲「混声合唱のためのうた」という素晴らしい連作シリーズがあります。色んな合唱団が愛唱曲にしていると思うのですが、その中で、こんな歌詞があったのを思い出します。「春が来たけど何もない 夏が来たけど何もない 何もないけど温かい・・・人の心の 人の心の温かければ 何もないけどそれこそ全て・・・」なんていう題名の曲だっけ、忘れてしまったし、細かい歌詞は違っているかもしれない。でも、武満さんの本当に美しいメロディーと共に、なんだか強く印象に残っているフレーズです。

戦後、日本人は本当に何もかもなくした。物質的にも精神的にも。その時、周五郎は、「愚直たれ」と説き、「何もなくても、人の心が温かければそれでいい」と詩人は歌った。逆境や苦難の中で、頼るものが何もなくなった時、人の心の真情、温もりだけが、最後の頼りなんですね。「柳橋物語」の中でも最も感動的かつドラマティックなシーンは、大火に襲われたヒロインが死に直面した時、初めて男の真情を知る場面。東京大空襲の生々しい記憶を背景にしたこのシーンは、そのあまりのリアリズムと迫り来る死の現実感に圧倒されます。そして何よりも、燃え盛る業火の中で、その炎にも負けじと燃え上がる男の純粋で一途な思いに、胸が苦しくって息が詰まるような思いにとらわれる。

では、物質的に豊かになった我々は、逆になくしてしまった「人の心の温もり」「真情」とどうやって取り戻すのか。その答えは誰も出してこないんです。いきなり逆境や苦難に投げ込まれるわけにもいかないしね。実際、神戸の震災やオウム事件などの「現実化した地獄」の中に巻き込まれた人々は、そこで本来の人間のあるべき真情を見たと思います。現場に居なかった私でさえ、あの年の夏、神戸の真ん中に焼け残ったビルの屋上に、赤々と灯った赤提灯の下で、ビールを酌み交わしている人々の姿を見た時、本当に胸が熱くなるような、共感と感動を覚えました。

だからといって、一度作り上げたこの物質的な豊かさを、暴力的に叩き壊さないと、人間の真情は取り戻せないか、というと、そうではないはず。貧すれば貪する、という言葉もあるように、物質的に恵まれて初めて出てくる奉仕の心、というのもあるはずなんです。心の豊かさを身に付けるために、子どもに伝えられることは何なのか。昔はよかったよね、という回顧だけではなくて、自分にできることを考えたい。最近、なんだか痛切にそんなことを考えます。