「ナイロビの蜂」〜悪意の連鎖〜

パソコンの不具合と仕事の忙しさで、しばらく更新をお休みしておりました日記ですが、再開です。待っていた方がいらっしゃったら(いるのかしら?)、お待たせして申し訳ありませんでした。

パソコンの方は、立ち上げた途端、キーボードの下から、「ががががが」という不吉な音がして、Windowsが立ち上がらない、という症状でした。2・3日休ませていたら、一応立ち上がる所まで回復。修理センターに持っていくと、ファンによる内部放熱が充分できず、内部に熱がたまった結果、ハードウェアが不具合を起こしているらしい、との診断。「きちんと直すとなると、メーカーの方で、各種設定から内部データまで、全てクリアされちゃう可能性が高いですねぇ。」と言われる。ううむ、と逡巡。とりあえず、長時間作業せず、だましだまし使っていればなんとかなる、という状況も手伝い、優柔不断状態に。通信環境の改善と合わせ、買い替え含めちょっと考えようかな、なんてね。

てなわけで、パソコンをなだめなだめ、例によってくだらない独り言を並べていこうと思います。で、今日は、随分前に並べたインプット一覧の中から、北京行きの飛行機で見た「ナイロビの蜂」を取り上げます。

まだ見ていない方のために、ストーリには深入りしません。優等生で庭いじりが唯一の楽しみである温厚な外交官の夫。国際的な慈善活動家で、激情タイプの妻。アフリカで活動中に死んだ妻の死因に疑問を持った夫が、妻の足跡をたどるうち、国際的な製薬会社の犯罪的計画と、それに癒着した官僚たちの腐敗、そして、妻の深い愛情を発見する…というのが、機内誌に書かれていた大まかなストーリ。

そのストーリ紹介は簡潔にして要を得ていますし、サスペンス映画であり、かつラブ・ストーリである、という紹介にも納得。でも、「サスペンス」という側面を強調しすぎると、この映画の本質とは外れていってしまう気がする。それは、後に述べる、このかなりトンチンカンな邦題にもつながってくるのですが。

この映画は、サスペンス色よりも、ものすごく切ない夫婦愛の映画になっている。特に、執拗に妻の死の真実を追求していく夫の動機が、愛する妻の誠意を疑ってしまった自分への自戒と自責の念である、という所がすごく泣かせる。自分は妻を信頼しきれなかった、という後悔の念と、妻の愛情の記憶に、荒れ果てた庭で主人公は身も世もなく慟哭する。その姿は、夫婦という男女の関係性の一つの限界と、その限界を乗り越えようとするひたむきな真情、という、男女の関係の永遠のテーマを容赦なくあぶりだす。

でも、この映画の最大の主人公であり、最大の悪役であり、最大のテーマは、なんといっても、「アフリカ」そのもの、なんだと思います。少なくとも私は、これまで、ここまで醜悪に歪み切ったアフリカという現実を、一種の絶望感と共に描き出した映画を見たことがなかった。確かに、知識や言葉として、「アフリカ」の悲惨について情報を断片的に仕入れてはいました。しかし、「アフリカ」の悲惨は、単なる欧米資本主義の歪みの集積として生まれてきただけではないのだ、ということが、この映画では繰り返し、極めてショッキングな形で語られます。ラストシーン近く、善意に満ちた人間すら、アフリカを覆う悪意の連鎖の一つの鎖を構成していることを象徴的に示す事実が語られた時、観客はほとんど絶望的な気分にさらされてしまいます。ほんのちょっとした小さな出来心、というレベルの小さな悪意が、大きな悪意と連なりあい、重なり合って、多くの人々の命を奪ってしまう悲惨。一体どうすればいいんだ。我々に何ができるんだ。

略奪に見舞われた土地から逃げ切れなかった幼い少女は、何十キロも離れた難民キャンプに歩いて逃れねばならない。それができれば幸運。できなければ、死。略奪者が奪うのは若者や子供。彼らは即座に麻薬漬けにされ、そのまま、内戦のための兵力として、人格のないロボットとして、地雷原に向かう行軍の先頭に立たされる。汚職に腐敗しきった行政組織には、慢性的な飢餓と疫病と内戦を解決する力はない。

以前、この日記にも書いた、「メイク・ア・ウィッシュの大野さん」という本の中で、ボランティアの心得、みたいな文章がありました。三日坊主でいいのだ、とか、売名行為でも結構、といった言葉が並んでいて、とにかく、まずできることから、できる範囲で手をつければよくて、それは一瞬の善意であっても全然いいのだそうです。「ちょっと気が向いたからちょっとやってみる、なんてのは偽善者だ」と言われることは恐れる必要はなくて、継続してこそホンモノ、なんていう言葉に惑わされない方がいい。とにかく思い立ったら、やってみる。すぐやめたって恥ずかしいことじゃない。そういう一瞬の善意が積み重なれば、大きな善意になるのだから。

一人を助けることは、同じような境遇にある数千人、数万人を助けることを義務付ける。だから、その一人を救ってはいけない。行政が主張するその原則論に対して、主人公が、「目の前の一人の子供を救えないルールが、何のためのルールだ!」と激高する。目の前の一人をとにかく救うこと。それを積み重ねていかなければ、数千人、数万人を救うことなどできないはずなのに。

しかし、「ナイロビの蜂」という邦題は、ほんとによく分かりませんでした。原作本がそういう邦題を付けられたので、映画もこの題になったそうなんだけど、配給会社の想像力の欠如としかいいようがないねぇ。ちなみに、悪役の一つである大手製薬会社の名前が、「Three Bees」(3匹の蜂)という名前で、映画の中でも、3匹の蜂をあしらったロゴが象徴的に現われるんですが、あまりにも内容と無関係なところから持ってきてないか?原題の「The Constant Gardener」のままの方が絶対いいよねぇ。

この邦題の違和感は、作品自体を、「社会派サスペンス」と捉えてしまった失敗、という気がします。原作を知らないのでなんとも言えませんが、原作自体は、むしろサスペンス色が強いのかもしれない。「蜂」は、主人公たちの前にそそり立つ資本主義社会の犯罪の象徴として存在していますから、「サスペンス」映画のタイトルとしては、さほど違和感はないのかもしれない。

でも、前に言った通り、この映画では、「サスペンス」色は相当後退しており、主たるテーマは「夫婦愛」と「アフリカ」に絞られている。そのフォーカスの絞り方が、この映画の印象を非常に強いものにしている気がしました。ラストシーンは本当に絶望的なのだけど、これで主人公は、アフリカの現実の前にただ無力な自分や、妻の愛に対する後悔といった感情から開放されたんだろうな、と思います。アカデミー助演女優賞レイチェル・ワイズも素晴らしかったけど、夫役のレイフ・ファインズの気の弱そうな旦那さんが本当に切なくてよかった。