最近完全にはまっている山本周五郎、先週は、「扇野」を読了。収録されている短編の全てで泣ける。
ネット上の書評を見ていたら、「山本周五郎さんは、(あの顔で)すごい恋愛小説家だと思う」という書評があって、激しく同感。特に「扇野」は、その全編が、絡み合い、すれ違い、寄り添い、ぶつかり合う、男女の間の様々な心の行き交いを描いた佳品ばかりです。以下、未読の方には、ネタバレ記述がありますので、ご注意ください。
「夫婦の朝」。少し古めかしい筆致ではありますが、男性を支える女性、という型にはまった倫理観ではなく、妻の真っ直ぐな思いをさりげなく支える夫、という図式が泣かせます。周五郎さんは、魅力的な女性を描きだすことでも素晴らしい筆力の作家ですが、一方で、この作品のように、理想的な「夫」像、理想的な男性像を描き出すことにも冴えた筆を見せてくれます。女性読者も感動しそうな、シンプルながら見事な短編。
「合歓木の蔭」も、「夫婦の朝」同様、夢見る少女のような女性、という、周五郎的魅力に溢れた女性が陥った罠と、思いやりと愛情によって、彼女をその罠から救い出す理想的な「夫」像が描かれます。若干、「浅はかな女」と「思慮深い男」という図式に古臭さを感じる部分もありますが、時代小説、という前提がそれを許している。現代社会では中々描けない男女の関係でしょうね。
「おれの女房」。崇高なる芸術と汚濁に充ちた現実生活、という、一見二律相反する世界を、一人の芸術家が止揚していく。「絵画」という具体的な形と、「夫婦」という具体的な形の2つの形の中で、二つの世界が見事に一体化する、一種の芸術論のような短編。現実生活の中にこそ、芸術はある。爪に火をともすような貧窮と苦労を重ねた妻こそが、自分にとって最愛の「おれの女房だ」というラストシーンは、芸術論でありながらエンターテイメントとしても感動的な作品に仕上がっています。
「めおと蝶」「つばくろ」は、夫婦という男女の関係の中に生まれる、第三者には窺い知れない愛憎を活写した名品。「つばくろ」の子どもの舌足らずなセリフが泣かせる。
上記の4作品が、夫婦という関係の中で生まれるドラマを追った作品とすれば、「扇野」「三十ふり袖」「滝口」は、純粋な恋愛小説です。激しい運命的な出会いと、それを影でそっと支える日陰の愛を描いた「扇野」。社会的な制約に縛られて、真の情を交わせない男女の間を、下町の人情が通わせてくれる「三十ふり袖」。自分の中の雌としての「おんな」の存在に正面から向き合えない女と、彼女にひたすらまっすぐにぶつかっていく男の真心を、客観的な視点から描いた「滝口」。どの作品にも、男女の微妙な心理の動きと、それを一種の人生観にまで高めた深い洞察が描きこまれています。
最後の現代もの「超過勤務」は、ほとんど完全な舞台作品です。おそらくそのまま、台本化することも可能じゃないかと思う。会社組織の中の一つの歯車として使い捨てられる男の悲劇を描いてはいるのですが、ここでも、その男が、天衣無縫な少女に翻弄されるシークエンスで、ファム・ファタールに振り回される男の姿が描かれます。
周五郎作品の魅力は、登場する多様な女性像と、そのリアルさ。そして、どの女性も実に魅力的。「嫌な感じの女」というのが出てこない。女性読者には別の感想があるかもしれませんけどね。どの女性の心理にも、行動にも、はっきりした一貫性とくっきりした人物造型があり、そこからはずれたセリフも行動も存在しない。それでありながら、類型的でない。こんな女も確かにいるよなぁ。そうそう、こんな女もいるかもしれない。そんな風に思わせながら、「おんな」という永遠の謎の周りをぐるぐると回り続けている愚かな「おとこ」である自分を、なんとなく自覚させてくれる、そんな短編集でした。