「1936年の日々」〜芸術と制約〜

逆境、というのは、優れた芸術作品を生み出す土壌なのかもしれない、と思うことがあります。昔の映画でいえば、戦時中の苦難の中で生まれたマルセル・カルネの傑作「天井桟敷の人々」から、太平洋戦争時に作られた日本映画の傑作「無法松の一生」。映画に限らず、様々な逆境を克服する中で生まれた芸術作品というのは、作り手の執念がこもるのか、傑作が多い気がします。昔見た映画で、トルコ映画の「路」という傑作がありましたけど、これも、軍政下で、監督が投獄されるような厳しい条件の下で生まれた傑作でした。ちょっと違うけど、監督が、エイズにかかった自分自身をモデルに、自分自身が出演して撮影された「野生の夜に」という映画も、傑作だった。自らの死、という迫り来る絶対的な制約の中で生まれた傑作。

細野不二彦さんが「ギャラリー・フェイク」でブレイクする前に描いた、「あどりぶシネ倶楽部」という好中篇マンガがあります。この中で、才能ある映画青年が、自分の撮った映画を編集することができなくて苦労する、というシーンがある。どのシーンも愛着があって切れない。全部つなぐと6時間を越える長尺になってしまう。上演時間、というのは実に分かりやすい制約なんですが、逆に、その制約を越えて自由に表現してしまうと、作品としてのクオリティが下がってしまう。映画のテンポ感や、冗長さなどを削り取っていくには、「編集」という制約が欠かせない。

俳句や短歌、という定型詩の持つ美しさ、というのも、一種の「制約の中の美」という気がします。全ての芸術作品は、制約・限界の中でどれだけ自己表現するか、というアプローチなのであって、その制約・限界があるからこそ、光り輝くのかもしれない。勿論、制約・限界の中での様々なアプローチが行き詰った時、大きなパラダイムシフトによって、制約・限界を破壊したさらに自由な表現、芸術が生まれてくる。しかし、それらの新しい表現も、再びそれ自体が制約・限界に変貌していく。芸術というのは、そういう大きなサイクルの繰り返しなのかもしれない。

テオ・アンゲロプロスの映画「1936年の日々」は、全然理解できない映画です。ストーリはきちんとあって、とてもシンプルで明快な物語。でも、確実に、そのストーリには「裏がある」と思わせる作りになっている。その「裏」というのは、ギリシアで1936年に成立したメタクサス政権の成立の過程を寓話化して描くことで、当時ギリシアで成立していた軍事政権に対する強烈な風刺になっている、という構造らしい。

でも、その「構造」というのが、現代日本の我々には全然理解できない。登場人物の名前や行動の隅々に、そういう「見立て」というか、暗喩が含まれているらしいんだけど、そのへんの読み解きがないから全然分からない。この映画のネット上の批評を色々見ても、「全然理解できない」という声が圧倒的でした。私も例に漏れず。さっぱり分からん。

さっぱり分からん映画なんですが、これが実に魅力的な映画なんです。アンゲロプロスの映画文法である長回しや、360度パン、カットのテンポ感、そして強烈な色彩感覚など、原型は全てここで出揃っている。以前この日記に書いた、「再現」でも既に完成されていたそれらの文法が、カラー映像になってさらに強烈な完成度を高めている。そんな映像の圧倒的な説得力と共に、理解できないまでも端々に迫ってくる「執念」のようなものがある。その「執念」というのは、まさに、軍事政権下の厳しい検閲という制約の中で、いかに自分の表現したいものを表現するか、という作家の「執念」。

そういう「執念」のこもったフィルム、というのは、何か独特の魅力を発するような気がします。以前、ゼフィレッリが作った「永遠のマリア・カラス」という映画について、「映画作品としては凡作なんだけど、ゼフィレッリの執念のおかげで佳作になっている」ということを日記に書いたことがありましたよね。何かしら、映画作家がフィルムに込めている熱情、炎のようなものが、観客を圧倒してしまう作品。ストーリの完成度とか、カタルシスといった一般的な指標をぶっ飛ばしてしまうようなパッション。

アンゲロプロスの最高傑作が「旅芸人の記録」であることは異存のない所だと思いますが、これも、アンゲロプロスが、軍事政権下で必死に綴ったギリシアへの執念の記録です。この「制約」を失ったアンゲロプロスの最近の作品はあまり見ていないのだけど、例えば、「こうのとり、たちずさんで」とか、悪くはないんだけど、今ひとつインパクトがない。

黒澤さんが、モノクロ作品からカラー作品に変わった時に、どこか映画のパワーを失ってしまった、という話がありますけど、「制約」の中でこそ生まれるクオリティの高さ、というのはある気がします。最近のCG技術の進歩で、何でも表現できるようになった映画が、かえって何一つ本質的なものを表現していないような違和感。何もかもが手に入る豊かな社会で、かえって空虚になっている現代人の精神風土に対比して、不自由だったり過酷だったりした戦時中の社会における人々の精神の豊かさが回顧されるのと、構造的には似ている気がする。要するに、全てが手に入るようになると、人間は何もいらなくなるし、何もかもが表現できるようになると、人間は何も表現したくなくなってしまうんじゃないかな。そんな気がします。