カヴァレリア演出練〜こりゃ大変だぜ〜

週末、大田区民オペラ合唱団の「カヴァレリア・ルスティカーナ」の練習に参加。伊藤明子さん(「先生」とは呼ばないで、とおっしゃるので・・・)の演出練習が始まりました。かなり「ヤバいなぁ」と思ったのは、指揮者とオケを背中にしないといけないこと。舞台の前面が演技スペースになっていて、オケが舞台の奥にいる。なので、合唱団やソリストは、指揮者を背中にして歌ったり演技したりするんです。全く指揮者が見えない。

モニターや、副指揮者がサポートしてくれる、という話ではあるのですが、小松先生の指揮、というのは、先日書いたように、全部指揮が語ってくれる指揮。細かい先生の顔の表情や、棒使いを確かめながら歌えない、というのは、これは相当怖いです。とにかく先生に注意されたことを、全部頭と体にたたきこんでおかないと。先生の諸注意を書き取った楽譜をじっくり読み込まねば。

伊藤さんの演出は、日本的な「ムラ」と共通するような「共同体」の中で起こった悲劇、という構造を明確にしたい、というご意図のように捉えました。サントゥッツァ、という女は、村にとってタブーである存在。でも、「そのタブーが存在していることで、村の平和が保たれている。」柳田国男の「一つ目小僧」の論考で語られたような、共同体においてタブー視される存在だからこそ、共同体の結束感が強まるような存在。

日本的な「ムラ」と、そこに登場する異質な人々の間に起きた悲劇、としてドラマを捉えると、それぞれの人物像が明確に見えてくる。アルフィオは、「ムラ」に豊かさをもたらす「マレビト」として、ムラの人々の憧れの存在。そういう「ムラ」の閉塞感、タブーから逃れようとして外に飛び出していったトゥリッドゥは、「マレビト」に成りそこなった、一種の「堕ちた英雄」として位置づけられる。トリックスターになりそこなったトリックスターなんですね。でも、トリックスターとしてのトゥリッドゥが持っている「外への渇望」「タブーからの解放への希求」こそが、まさしくタブーの真ん中にいるサントゥッツァを捉える。同様に、「マレビト」への憧れからアルフィオと結ばれながら、夫が「マレビト」だからこそ必然的に「夫の不在」に耐えなければならないローラも惹きつけてしまう。

そういう主人公達の「解放への希求」を表現するためには、逆に、「ムラ」の持っている閉塞感と、閉塞しているのだけど、その小さな水溜りの中で保たれている平和と安寧が表現されなければならない。そういう強固な「秩序」の中での平和を表現するのが、我々合唱の役割です。「秩序」は、「無秩序」や、「タブー」に対して極めてビビッドに「無視」を決め込もうとする。

「ムラの人は、みんな、トゥリッドゥとローラの不倫を知ってるんです。知っているけど、触れない。見ない。サントゥッツァの苦悩も知っている。でも関わろうとしない。そういう『見てみぬふり』をきちんと作ってください。」

伊藤さんの今回の演出は、そういう非常に明確な人物の位置づけを、何度も合唱に繰り返し刷り込みながら、「リアルな村人たち」を自分達で作って欲しい、と要求してきます。「秩序の中の幸福」を演じるために、伊藤さんがキーワードにしているのが、「家族」あるいは「愛する人」です。

「クリスマスは家族で、復活祭は愛する人と」という言葉があるそうです。「カヴァレリア」の原作になった戯曲で、久しぶりに村に帰ってきたアルフィオが言うシーンがあるそうです。「復活祭は愛する人とっていうから、愛するローラのところに帰ってきたよ」。でも、ローラはその時、寂しさに耐えかねて別の愛に逃げ込んでいた。

そういう、すれ違いの愛、失われた絆、というものを強調するために、伊藤さんは、「だからこそ、周囲にいる合唱は、愛に充ちた、強い絆に結ばれた家族を演じなければ」とおっしゃいます。そうすることで、主人公たちが失ってしまったものが際立ち、悲劇の必然性があぶりだされる。ということで、合唱団の全員がグループ化され、それぞれの「家族」や「集団」の絆を明確にするよう要求されています。

その中で、私が割り当てられたのは、まさに幸福そのもの、という「結婚式を目の前にしたカップル」という役回り。立ち位置もセンターに近く、結構目立つところ。アルフィオとの絡みもあるので、「秩序」の中での幸福に十二分に満足しきっている若者、という表現を、いかにお客様に伝えるか、あと1ヶ月、じっくり研究してみたいと思います。