昨夜、前々から楽しみにしていた、大野和士指揮、モネ劇場の「ドン・ジョヴァンニ」を見てまいりました。
指揮:大野和士
演出:デイヴィッド・マクヴィカー
合唱指揮:ピアーズ・マキシム
合唱:ベルギー王立歌劇場合唱団
管弦楽:ベルギー王立歌劇場管弦楽団
ドン・ジョヴァンニ/サイモン・キーンリィサイド
ドンナ・アンナ/カルメラ・レミージョ
レポレッロ/ペトリ・リンドロース
マゼット/ウーゴ・グアリアルド
ドン・オッターヴィオ/(キャスト変更があったのですが、手元に情報なし)
騎士長/アレッサンドロ・グエルツォーニ
ドンナ・エルヴィーラ/マルティーナ・セラフィン
ツェルリーナ/ソフィー・カルトホイザー
という布陣でした。
大野さんのピリオドアプローチが評判になっていますよね。実際、シンプルな形のホルン(ナチュラル・ホルン、というのでしょうか)や、先日のガレリア・フィルの演奏会でも拝見したバロック・ティンパニなどのピリオド楽器が並び、序曲の最初の音から、普段聞くオケとは随分違う音がしました。どういう音か、というのは私の耳ではなんとも言いがたいのですけど、「乾いた音」とでも言うのかな。普通のオケの音よりも、何か、「エッジ」が立った、鋭い音がするような気がする。
以前、モーツァルトのレクイエムを、山口俊彦先生が指導されているのを聞いていた時に、「後期モーツァルトは、ほとんどロマン派に近づいて来るんだよね」とおっしゃっていました。そういう、ドン・ジョバンニの暗く、ドラマティックな、ロマンティックな音楽が、エッジの効いたピリオド楽器で演奏されると、何か輪郭がくっきりしてくる。そして、大野さんの演奏で私の印象に残ったのは、「ドン・ジョヴァンニって、3人の女性が主人公なんだ」ということでした。
実際、ドン・ジョヴァンニ本人にはアリアがないんだけど、3人の女性にはとても大きなアリアが与えられている。そのどのアリアも、実に素晴らしい出来でした。3人の女性を演じた歌手はそれぞれに素晴らしく、特に、ドンナ・アンナのカルメラ・レミージョさんの透明でありながらドラマティックな歌唱に感動。この、透明感とドラマティックな表現がバランスしている、というのが、今回の音楽の基調だったように思います。
歌によりそうオケの絶妙なダイナミクス、全体のアンサンブルの見事さ。音楽的なところで言えば、ドン・ジョヴァンニの音楽をクリアに楽しめた、という印象。でも、その印象が、どうしてもぼやけてしまう感じがしたのが、演出でした。
「ドン・ジョヴァンニ」というのは、色んなエッジの効いた演出が発表されている演目ですよね。例えば、この日記でも、宮本亜門が演出した、テロ後のアメリカに舞台を設定した「トンデモ演出」について書いたことがあります。とんでもないけどすごく面白い。そういう、ある意味「トッピ」な演出も受け入れてしまう普遍性。でも、逆に、そういう演出優位の舞台たちに汚された「ドン・ジョヴァンニ」の音楽そのものを、もっときちんと捉えなおそうよ、という、わりと伝統的なアプローチなのかな、という気もしました。でもね、それにしては全体のコンセプトが中途半端。この後、ネタバレ記述が続きますので、未見の方はお読みにならないように。
コンセプトが不明確、ということではなくて、非常に明確なんです。舞台全体は夜の世界=死の世界に設定されている。象徴的に、白骨が散らばる墓場が、舞台の前面のところに設置されており、背景や舞台道具も、夜の不気味な街の影や、あるいは燃え盛る廃墟、といった、「死」「破滅」を表現したオブジェに囲まれている。「死」の大海原の中にぽつんと浮かぶ、「生」の孤島のような。
恐らくは、それは、世間から見捨てられ、父の死によって自分自身の死を意識し、常にその死の影におびえ続けていたモーツァルト自身の心象風景である。音楽が、モーツァルト時代の原点に戻ろうとしたのと同様に、舞台上も、モーツァルト自身の心象風景に戻ろうとした、そういうアプローチと見ました。その「生の孤島」の中で、その小さな島の中には収まらないエネルギーとパッションを撒き散らすのがドン・ジョヴァンニ。それは、死の予感におびえながらも、必死に生への讃歌を歌い続けたモーツァルト自身に重なります。そのコンセプトがさらに明示されるのが、ラストシーン。地獄落ちのシーンで、ドン・ジョヴァンニは地獄に消えていくのではなく、舞台上で悶絶死します。その死骸が、舞台前面に設置された白骨ちらばる墓場に無造作に投げ捨てられる。それは、墓すら立てられず共同墓地に埋葬された、という、モーツァルト自身の死の伝説につながる。つまりこのラストシーンで、「ドン・ジョヴァンニ=モーツァルト」という図式が完結するのです。
言いたいことは分かるよ。言いたいことは分かる。うん。でもね。エンターテイメントとして、カタルシスを求めてきた観客にとって、手前にゴロンと転がったドン・ジョヴァンニの姿が幕切れってのはさ。どうなのよ。すごく、「やーな感じ」がするよ。うん。
オケの表現力の広さは素晴らしく、大野さんご自身が弾かれたチェンバロも、まさしく歌手と共に「演じている」、そしてその演技を楽しんでいる雰囲気が伝わってきました。ドン・ジョヴァンニ役のキーンリィサイドさんは、どうも風邪を引いてらっしゃったようで、舞台上で洟をかんだりしてたけど、演技か実際かよく分からない。ドン・ジョヴァンニになりきった自然さ。ツェルリーナとの二重唱でタンが絡んじゃって、歌詞が一部飛んじゃったりするアクシデントもあったけど、最後まで端整に、かつ野生的に演じてらっしゃいました。粗野なそぶりをしても上品に見えるってのが、ドン・ジョヴァンニ役の必須条件であり、難しいところだと思うけど、素晴らしい存在感でした。
素晴らしいオケと、バランスのいい歌手がそろっていても、オペラってのは総合芸術なんですねぇ。演出で、なんだか「やーな感じ」が残ってしまうと、いかに大野さんのオケが素晴らしくても、全体として見て、爽快感のある舞台、という印象にならないんだなぁ。モーツァルトのオペラ、というのはどれもそうで、部分部分で素晴らしい演奏があったとしても、全体として見た時につまらない、という舞台になっちゃうリスクが高いなぁ、と思います。モーツァルトって、本当に難しいねぇ。