アマチュアってのはさ。

木曜日から、社内の講習会があって、日記の更新をお休みしておりました。オラ生きとるだよ。なんか定着しそうでやだなぁ、このフレーズ。例によって、更新お休み中のインプットをいくつか並べます。

・講習は、スティーブン・コヴィーの「7つの習慣」のセミナー。なんか、サラリーマンの講習って感じでしょ?
・週末、大田区の練習に。アマチュアである、ということについて考える。
テオ・アンゲロプロスの「1936年の日々」を見終わる。理解できないように作ってある映画なのに面白いってのは一体なんなのだ。
・女房と、オペラ歌手とおっぱいの関係について考察する。

今日は、アマチュア論をば。
 
週末、大田区民オペラ合唱団の練習に。トゥリッドゥ役の本役のドロキシンさんが参加されて、いよいよ本番が近づいてきた、という感じ。副指揮者の桜屋敷さんが全身全霊で、重たい合唱団を動かそうと奮闘される。それに合わせて、なんとか必死に音楽をクリアにしようと頑張る。頑張るんだけど、体力がないので、途中で汗だくになって膝が笑いだす。最後、ソリストがいないので、例によって出しゃばって、アルフィオの登場の歌を代わりに歌ったんだけど、自分で聞いていても明らかに声が上ずって音程が安定しない。後半の高音になると、自分でもしんどくなってきて、ポジションが保てないのに無理に出すものだから、例によって絞り出すみたいなキチャナイ声しかでない。出しゃばると自意識過剰で自滅する、といういつものパターンです。なんか、ヒサンな歌を聞かせてしまって、合唱団の皆さんには申し訳ありませんでした。

私のアルフィオは、代役の役も果たせないようなヒサンな歌だったんですが、トゥリッドゥ役のアンダースタディをされた方(お名前失念してしまいました、すみません)の歌は本当に素晴らしかったです。とにかく基礎がすごくしっかりしている。終盤のトゥリッドの絶唱、というのは、感情に任せて作ってしまうとボロボロになっちゃう所だと思うんだけど、楽譜に忠実に、どの音域もきちんと同じポジションを保ちながら、知的に捌いてらっしゃる。そうすると却って、楽譜に書かれたトゥリッドゥの心の悲鳴が伝わってくるような、そんな気がしてくる。

もちろん、その後、同じ場面を本役のドロキシンさんが歌われて、それはスケールが全然違うんですよ。母音の深さがまるで違うし、演技のスケール、歌の端々の手練手管だって、さすが一線で活躍している方は違うと思う。でも、個人的には、このアンダースタディの方の歌もブラボーをあげたいと思ったなぁ。テノール歌手、というのは、高音が出るだけで希少価値があるので、意外と、高音域から中低音域まで満遍なく端整に鳴らせるテノール、というのは少ないんじゃないかな、と思います。ルックスも、チョンマゲ姿が似合いそうなお武家さま顔の二枚目テナーで、今後のご活躍がすごく楽しみです。後でお名前を調べて、この日記にも載せるようにしますね。ご存知の方、いらっしゃったら是非教えてください。

大田区民オペラ合唱団でご一緒するソリストの方々は、本当に第一線で活躍されているすごい方々が多いです。でもそれだけじゃなくて、合唱団のトラでお手伝いしてくださる芸大で学ばれている若い歌い手さんや、アンダースタディの方など、きちんとした「基礎」練習をされた方の歌に触れることができるのが最大の魅力。

それに対する我々は、という話で、先日も、大田区民オペラ合唱団のある団員さんとえらく盛り上がってしまった。我々はアマチュアです。でも、同じ音楽をやっていて、同じ舞台に立つ人間である時に、「アマチュアである」ということの持つ意味というのは、「ハンデ」であるか、あるいは「言い訳」であるか、2つしか意味を持たないんですよね。

「ハンデ」というのは、どんなに素晴らしいパフォーマンスを見せたとしても、「まぁアマチュアにしては頑張っているよね」という目でしか見られない、ということ。特に日本のように、「本格的に音楽を勉強した人」(=音楽大学に行った人、という意味)であるかどうか、というのが、音楽をやる上での一つの「階級意識」として定着している国においては、アマチュアであることというのはハンデ以外の何者でもない。プロ以上のクオリティを出すか、プロとは何か違うアプローチで勝負するか。でも、違うアプローチをするにしても、絶対必要な基礎体力、というか、基本の鍛錬は不可欠なんです。

「言い訳」というのは、そういう基礎体力や基礎鍛錬をきちんとやらないと、という話をすると、「いいじゃない、そんなに一生懸命にならなくても。我々はプロじゃなくて、アマチュアなんだから」というセリフが返ってくること。まぁおっしゃる通りなんですけどね。特に、歌、というのは、楽器と違って、楽譜が全然読めなくても、耳で聞き取った旋律をなんとなく歌える。発声障害を持ってなくて、普段普通に喋ることができる人であれば、なんとなく歌える。そういう「なんとなく歌える」人たちに、本格的なクラシックの曲を上手に歌わせるテクニックを持っている優秀な合唱指導者も沢山いる。そうやって、アマチュア合唱団から、クラシック愛好の裾野が広がっているのも事実。

でもねぇ、すぐ目の前で、一流のプロのソリストが炎のような歌を歌っている側でさ、「なんとなく」歌ったり、「なんとなく」お芝居するのはやっぱり失礼だと思うんだよなぁ。同じ舞台に立っているんだし。「言い訳」にもしたくない。どうせ同じ舞台に立つのなら、「所詮アマチュアの素人芝居でしょ」なんて言われるような演技もしたくないし、歌も聞かせたくない。盛り上がっちゃった団員さんの言葉を借りれば、「そんなの、音楽に対して失礼だし、どうせなら勝負したいよね。」

同じ舞台に立っている以上、我々も、木でもなければ椅子でもない。シチリアの土臭い空気を共に呼吸している同じ人間として、ソリストたちと同じ場所に立っている。それでありながら、ソリストたちの炎を邪魔しないように、さりげなく自然に、背景として演技すること。求められているものをきちんと表現するためには、言い訳しているヒマなんかない。アマチュアであることはハンデなのだから、本番までの残りすくない時間を、ハンデを克服するための時間として有効に使うことを考えないと。時間がないよー。