「女王の教室」〜子どもたちが戦う相手〜

この3連休、ぼんやりつけていた昼間のTVで、いきなり、黒ずくめの天海祐希がガン飛ばしてきて、「なんじゃこりゃ」と、思わず見入ってしまいました。「女王の教室」ダイジェスト。いいですねぇ。建前としての教育論を体現している「金八先生」みたいないい先生の前で、生徒がどんどん崩壊していくドラマ見せられるよりも、生徒を崩壊させている社会の歪みそのもののカリカチュアである「阿久津真矢」の方がリアルに見えるのが面白い。

「いい加減に目覚めなさい」という決めゼリフとともに、真矢が突きつけてくるのは確かな現実です。大人が「建前」という虚飾で覆い隠そうとする醜い現実への覚醒を迫る真矢のセリフは、「そんなこと言う教師はいないよ」と思いながらも、「みんな本音ではそう思っているんだよね」「思ってて言わないだけなんだよね」と思う。徒然草じゃないですが、思っていることを口に出さないのは「腹ふくるるわざ」。みんな、本音を口に出せないストレスを溜めている。だから、真矢の本音の発言は、いちいち爽快感を伴う。

しかもその真矢の人物造型が、カリカチュアであると同時に、一種の「理想形」であることも面白い。知性・身体能力・交渉能力、全てにおいて完璧な人格として造型されており、あらゆる権威から独立したスーパーウーマンとして表現されている。かつて、「ぼくらの七日間戦争」や、「教師びんびん物語」などの教育ドラマで生徒達が戦った先生達とは根本的に異なる。彼らはあくまで、日本的に軍隊化された社会構造のカリカチュアである学校組織・教育組織の「構成員」であり、「サラリーマン教師」達でした。真矢はそういった組織や権威すら、「あなた方は結局xxなだけなのよ」とばっさり切り捨てる。

真矢が象徴しているのは、かつての子ども達が戦った、旧来の日本の「組織化」「没個性化」を推し進めた教育ではない。最近の日本、今後の日本が進んでいくであろう、貧富に分断された社会における徹底的な実力主義能力主義です。社会が既にそういう形で変質していっているにもかかわらず、旧態依然とした平等教育と事なかれ主義にしがみついている教育の現場を一刀両断する真矢の姿には、どこかで快哉を叫んでしまう。

じゃあ、真矢みたいな教師に、自分の娘を預けられますか、と聞かれたら、それはイヤだよねぇ。でも、今後の日本の社会で生きていくこと、というのは、まさしく、真矢が象徴する実力主義能力主義の社会で生きていかねばならないこと。教育現場で真矢のような教師に出会うことはなくても、社会に出て行く以上、真矢が象徴するイデオロギーとの戦いは不可避なんです。

このドラマ、真矢に対して子どもたちが戦いを挑む、というストーリらしいですが、なんとなく個人的には、真矢が子どもに負けて自分の行状を悔い改める、なんていう、ありがちないい話に落ちてほしくないなぁ、と思います。