「クライバーのリハーサル」〜有言実行のための技術〜

この3連休はいくつかのイベントがありました。メインイベントは、ずっと懸案だった、荒れた庭の芝を全部剥ぎ取って、玉砂利を敷いたこと。下着やらTシャツを数枚泥まみれ汗まみれにしての作業で、今日も体のあっちゃこっちゃが痛いです。とはいえ、体の痛みとそれなりの充足感以外に、何か精神的インプットを得た活動、とはいえないなぁ。ということで、それ以外のインプットをいくつか並べておきます。

・録画してあった「機動警察パトレイバー」の劇場版第二作を見る。
・今月クラシカジャパンで放送している「クライバーのリハーサル」を見る。
・図書館で借りた、宮部みゆきの「あかんべぇ」を読了。
・娘の幼稚園のボンファイヤーの集いに、家族そろって浴衣を着て出かける。
・話題の「女王の教室」のダイジェストを見る。
・身内の音楽会の練習。楽しいねぇ。

例によってぼちぼち書いていきますが、今日はこの中で、「クライバーのリハーサル」の話を。
 
クライバーのリハーサル」映像は、以前ガレリア座で、「魔弾の射手」をやった時に話題になっていたんです。「魔弾の射手」と「こうもり」の序曲を、シュトゥットガルト放送響で演奏した際のリハーサルの映像。もともと、その筋の方々の間では相当有名な映像のようですね。以前一度録画して見ているのですが、今回、クラシカジャパンで放送していたので、DVDで残しておこうと録画。再見しました。

この映像を見て、クライバーの詩人のようなレトリックの豊富さに驚嘆する人もいる。ユーモアとテンポ感のある指示に、オケを引っ張る指導力を見る人もいる。私のように音楽の素養のない人間は、やっぱり、音楽を一つのドラマとして捉えるレトリックの豊かさに感動してしまう。「1度問いかける。しかしトロンボーンが拒絶する。再度問いかける。しかし再度拒絶される。完全な拒否だ。2度目の問いかけはもっと切実であらねば」なんてセリフを聞くと、ワクワクしちゃうじゃないですか。

でも、同じ映像を見ていた女房は、全然違うことを言うんですね。「この程度のレトリックであれば、多少音楽を勉強し、オペラを勉強し、楽譜を勉強した人であれば、ちゃんと言えるセリフだよ」と。

クライバーのすごさは、その華麗なレトリックではない。確かに華麗なレトリックに耳を奪われてしまいがちだけど、彼のすごさは、そのレトリックの通りにタクトが振れるバトンテクニックと、極めて具体的で的確な演奏技法に対する指示、つまり、技術的な能力の高さなんだ」と。

実際、よくこの映像を見ていると、印象的な詩的レトリックよりも、細かい演奏上の指示に大部分の時間が割かれていることに気付きます。「そこはあまりピアニッシモにしないで、二度目の方がピアニッシモに聞こえなくなるから」「その16分音符をきちんと刻んで、ぞんざいにしない」「そのコントラバスが大きすぎる」・・・そういう技術的な指導、指示の合間に、その指示の根拠になる、非常に印象的で美しい言葉が挿入される。一瞬たりとも、演奏者の注意を逸らさない話術の巧みさももちろんですが、その「指揮技術」「音楽技術」「演奏技術」のレベルの高さに圧倒される。

「口で言うことはできるかもしれないけど、口で言ったとおりに指揮棒を振るのは大変なんだよねぇ」とは女房のセリフ。女房は昔、大学合唱団の学生指揮者でしたから、指揮者の立場でモノを見るようです。「音楽指導というのは、その練習に参加している人たちを、どれだけ幸福な楽しい気分にしながら、音楽のクオリティを高めていくか、というパフォーマンスの舞台なんだ」、とは、女房のセリフ。そのパフォーマンスにおいて、いくら百万言を弄して音楽の魅力を語っても、肝心のタクトがその言葉を裏打ちできなければ何の意味もない。肝心の楽譜に落とし込んだ指摘ができなければ、音として表現につながってこないのです。

あの天才料理人と言われる道場六三郎さんが、「料理の真髄は、『段取りと仕上げと感謝』です」とおっしゃっていた、という話を聞きます。どこにも閃きなんてものはない。どこにも詩だの批評だのは存在しない。必要なのは、非常に地味で地道な技術と基礎を磨くこと。クライバーと言えば天才的な指揮者、ということで、そういう天才の閃きみたいな部分が強調されますけど、実態はそうじゃない。自分が納得のいく楽譜しか振らない、逆に、楽譜を自分が納得するまで読んで読んで読み込んで、それを自分の指揮棒にきちんと表現するにはどうすればいいのかを極限まで突き詰めた、一人の「指揮職人」としてのクライバーを、再認識した映像でした。