「機動警察パトレイバー」〜情報を削減すること〜

録画してあった「機動警察パトレイバー」劇場版第二作を週末に見終わる。押井節も全開だけど、伊藤和典節が全開ですね。平成ガメラのシリーズを見ても、伊藤和典という脚本家はタダモノじゃない。この人は常に「戦争」を描きたいようなんだけど、現代日本で「戦争」を描こうと思うと、怪獣を出してきたり、バーチャル世界で戦ってみたり、「うる星やつら」みたいにパロディにしてみるしかない。そういう「戦争」という概念についてのストレス、というか、今の日本で「戦争」を描くことの難しさを、逆に凝縮したような映画でした。

平和ボケした東京に対して、テロという相手の見えない戦争状態を作り出す。この映画に対するいくつかの批評が指摘している通り、これはまさしく9.11の予言的な映画です。幾多の「戦争」というベクトルが合成された上に成り立っている「平和」、という状態。その複雑なベクトルの絡み合いをほぐすことは、「平和」という状況を崩すことになる。それはにっちもさっちもいかない閉塞感につながる。その閉塞感から東京を開放するために、全ての人々を自由な「鳥」にするために、テロリズムという手段をとる男。その男を手錠という形で地上につなぎとめるのは、女の愛である、という一点で、この映画はラブストーリーでもある。

面白いなぁ、と思ったのは、押井さんらしいイメージ映像を背景に流れる竹中直人さんの長ゼリフ、というか、説教のシーン。こういうシーンが作れる、というのは、アニメーションの一つの武器だと思います。実写の場合、画面上の情報量をいくら限定しようとしても限界がある。動きのない映像にしてしまうと、映画という時間芸術の特性が活かせない。そうすると、非常に豊富な情報を持つ実写画面に目が奪われてしまって、長ゼリフの情報に頭が集中できなくなるんです。でも、アニメの場合、動き、という時間芸術の特性を残しながら、セル画、という、現実世界よりもはるかに情報量の少ない映像を流すことによって、長ゼリフの情報を処理する余裕を観客に与えることができる。

昔のアニメは、絵を動かすだけのセルの数を予算上削るために、ほとんど動きのない絵の上で、声優たちの演技が情報を補う、という表現を余儀なくされました。でも押井さんのいくつかの作品を見ると、彼が、「映像上の情報を削減し、セリフの情報に観客を集中させる」という形で、このアニメの「限界」を逆手に取った表現を時々使っているのに気付きました。映画という表現形態には、まだまだ色んなやり口が残っているんだねぇ。