「武士の一分」〜日本映画の王道〜

中国との往復の飛行機の中で、1本ずつ映画を見る。それぞれ、見たいなぁ、と思っていた映画だったのですが、それぞれにずっしり残るものがあるいい映画でした。今日は、行きの飛行機で見た「武士の一分」を。

山田洋次さん、という人に対しては、日本映画の不振期にあっても、コンスタントに万人受けするエンターテイメント映画をこつこつ作り続けてきた人、という印象がある。逆にそういう印象のために、「寅さんシリーズが日本映画をつまらなくしているんだ」みたいなことを言われていたのも確か。私も、ひねくれた映画ファンの一人でしたから、山田洋次の映画なんか見てどうするんだ、と突っ張って、彼の作品はほとんど見ていませんでした。「幸せの黄色いハンカチ」を見て、予定調和的な大人のおとぎ話をなんだか白けた感じで受け止めた記憶しかない。

「武士の一分」は、そんなひねくれモノの浅はかな先入観を、一瞬で吹き飛ばしてしまうような、重厚な本格時代劇映画。逆に、「万人受けするエンターテイメント」を作り続けることが、どれほど天才的な才能と緻密なドラマ作りの技術を必要とするか、ということを教えてくれる。何よりも、その脚本が素晴らしい。

視力を失った三村が、「蛍はもう来ているか」と尋ねると、蛍が群れ飛ぶ庭先を前にしながら、妻の加世は、「まだです」と呟く。互いに互いを思いやりながら、思いやるがゆえに真実を伝えることができない夫婦の情と絆。そんな細かい夫婦のやりとりの中に、二人の性格と互いの思い、そして二人の運命までも、みっしりと盛り込んだ、練りに練られた濃密な脚本。脇役の一人一人に至るまで、きちんとこの世界の中に存在している、キャスティングの妙とキャラクター造型の素晴らしさ。

木村拓哉、という俳優さんは、木村拓哉であるがゆえに、背負っているものが大きくて、大変だなぁ、と思います。侍を演じるには、顎の形が細すぎて、玄米を食べていた江戸時代の人間には見えない。要するに、いい男過ぎるし、「木村拓哉」という看板が大きすぎる。しかも、どんな役でもきちんと演じきってしまえる器用さが、この俳優さんの扱いを難しくしている。要するに、どんな役もそつなくこなすけど、どんな役をやっても「木村拓哉」にしか見えない、ということなんですね。

それであっても、この三村という役が、木村拓哉さんという役者さんを得て幸福だったと思えるのは、彼自身の持つ自由さ、等身大の存在感が、三村新之丞という「侍らしからぬ侍」のキャラクターに見事にはまったから。三村は子供好きで、自分の「毒見役」という職務のくだらなさ、侍社会の規律に飽き飽きし、さっさと隠居して子供相手の剣術道場を開きたい、という夢を持っている。そういう、組織に依存していない、官僚化していない侍、いわば、封建社会における「武士らしくない武士」が、「武士の一分」を理由に決闘を挑む。

すなわち、その「武士の一分」とは、侍社会の規律の中の誇りではなく、人間として、男として、夫としての誇りを自分の剣で守る、ということ、組織に依存しない自由人としての「もののふ=武士」が、自分自身の誇りを守る戦いなのだ、ということを、彼自身の自由な存在感が無理なく納得させてくれる。毒見役の「サラリーマン然」とした小林稔侍が、失態の責めを受けて切腹するエピソードとの対比で、三村の戦いが、極めて個人的な、妻への思いやりから生まれた、やむにやまれぬ行動であることが示される。そういう行動に出る三村は、「自由」「個人」というイメージを身にまとった木村拓哉によって演じられることで、よりそのリアリティを増したと思います。

加世役の壇れいさん、という女優さんは、この映画で初めて拝見したのですけど、加世の純粋さ、哀れさ、強さ、情の深さを余すことなく演じきり、見事の一言。藤沢周平さんの原作の中でも、この「加世」というキャラクターの可憐さは際立っていて、傑作ぞろいの「隠し剣」シリーズの中でも、大好きな短編の大好きなキャラクターの一人でした。他にも、坂東三津五郎の品格さえ漂う悪役ぶり、徳平役の笹野高史さんの生活感と存在感、桃井かおりさん、緒方拳さんなどの無駄な力みの一切ない自然体の存在感にも感動。

ストーリはシンプルで、結末はしっかり予定調和なのに、思わずラストシーンで涙が溢れてしまうのは、小津安二郎から続く松竹映画の遺伝子なんでしょうか。食事のシーンが非常に重要な意味を持つところ、ドラマの大半が、三村の居宅、という限られた場所で展開されているところなど、一種の「ホームドラマ」の要素も感じさせる。そしてその空間造型のリアルさを支える、撮影・美術・衣装の充実度ときたら。まさに日本映画の王道に立ちながら、その熟練の技を余すところなく発揮して作り上げられた、職人芸的な佳作。藤沢周平3部作の他の二本も見なければ。