「潜水艦イ−57降伏せず」〜特攻精神の罠〜

ちょっと前に、日本映画チャンネルで、特撮映画の特集をやっていました。好きなもので、まとめて録画。少しずつ見ているのですが、先日、「潜水艦イ−57降伏せず」をやっと見る。

これは特撮映画、というよりも、非常にまっすぐな戦争映画ですね。もちろん、円谷特撮の描き出す水中戦は迫力があり、特撮映画としても見応えはあります。でも、潜水艦という密室の中で濃密に展開される人間ドラマの方が、むしろ感動的。戦争という極限状態の中で、与えられた任務に殉じる人々。艦長を頂点とする一つの家族として、固く結ばれた船員たちの絆。「ローレライ」公開に合わせて、日本で撮られた唯一の本格的潜水艦映画、ということで脚光を浴びたようですけど、地味ながらいい映画でした。

この後、「妖星ゴラス」を見ていて、これはまだ途中。しかし、池部良さんという俳優さんは、インテリの役をやらせると本当にぴったりですねぇ。「イー57」の河本少佐の艦長姿とか、実にはまっている。

以下、ネタバレ記述があるので、ご注意ください。

「イー57」のラストで、「イー57」は敵艦に突っ込んで自爆を遂げます。その特攻に対し、乗員の誰一人として疑問を差し挟まない。むしろ、死ぬことに対して喜びすら表明しながら、敵艦に向かっていく。しかし、この「イー57」の乗員の死は、どうみても完全な「犬死」なんです。その特攻が、この映画ではどこかで賞賛されつつ、美しく描かれているような感じがする。

そういう特攻による死を美化する感覚、賞賛する感覚、というのは、色んな日本映画で現われてくるもの。「妖星ゴラス」の冒頭、ゴラスに呑み込まれる隼号の乗員が、死を前にしてバンザイを叫ぶシーン、というのも、なんだか妙な違和感がある。「さらば宇宙戦艦ヤマト」のラストの特攻シーンに、原作者の松本零士さんが猛抗議した、なんて話もありましたよね。

もちろん、自己犠牲の精神の全てを否定するつもりはありません。日本映画だけではなく、自己犠牲の美しさを讃える映画や表現というのは沢山あります。わいと最近に見た映画だと、「ディープ・インパクト」もそういう話だったし、「天空の城ラピュタ」でも、主人公達の自己犠牲によって世界が救われる。でも、「イー57」の特攻死には、どこか納得できない感じが残る。それは、「彼らは自己を犠牲にすることによって、何を守ったのだろう?」という疑問です。

ディープ・インパクト」で彗星に突っ込んだシャトルの乗員達が守ったものは、地球。それは、最後に乗員達が、地球に残した家族達と通信をする、というシーンでも明確になっている。彼らには守るものが明確にある。だからこそ、その自己犠牲の姿は納得がいくし、感動的でもある。「ラピュタ」も、同様。守るものが明確。

でも、「イー57」の特攻死で彼らが守ったものは何なのか。日本を守る、という意味では、既に任務を解かれている以上、特攻する意味はない。日本の家族を守る、という意味では、ここで降伏して捕虜となってでも生き延びて、帰国する道を選ぶ方が正しい。にも関わらず、「戦場で死にたい」と叫ぶ部下達は、一体何を守ろうとしたのか。

忠臣蔵の赤穂志士達が守ろうとした「武士道」。そういう心のよりどころ、守るべき筋、のようなものに殉じる精神。それは確かにある意味美しいかもしれないけれど、やっぱり違うと思う。戦争という、人間同士の殺戮の中にあって、どのような「大義」も、必ず胡散臭さから逃れられません。そういう胡散臭い「大義」に殉じる特攻という行為を美化することにはどうしても抵抗がある。戦争というのは国際紛争の解決の一つの手段であって、最も愚かな解決手段である。それ以上でも以下でもない。そこに「大義」だの「正義」だのを付け加える余地なんかない。

「イ−57」の沈んだ海の上に、河本少佐の白い帽子が漂っている美しいラストシーンの上に、「この翌日、日本に原爆が投下された」という字幕が重なる時、製作者は「大義」を信じて散った人々への哀悼と同時に、そういう「大義」に殉じることへの疑問を提示したかったのでしょうか。そんなことを考えました。戦争映画を作るのは色んな意味で難しいよねぇ。