東京カンタート〜宇宙人の紡ぎだす日本語〜

今年のGWはインプットが多くて、日記に書ききれない感じです。昨日は、大きく2つのインプットがありました。

・トリフォニーホールで開かれた東京カンタート〜詩人と合唱「谷川俊太郎」〜を聴きにいく。
・夜、何気なくつけた「なんでも鑑定団」で、中島 誠之助さんの含蓄のある言葉に、女房ともども感動する。

先日の日記に書いた、映画「フリーダ」のことも書きたいのですが、とりあえず今日は、東京カンタートのことを書きます。

東京カンタートというイベントについては以前から知っていたのですが、拝聴したのは今回が初めてでした。『詩人と合唱「谷川俊太郎」』というプログラムに、女房が所属している大久保混声合唱団が出演する、という。「聴きに来る?」「行く!」ということで、錦糸町に向かう。娘は、つつじヶ丘にある「ラフ・クルー」という、新しくできた「子育て家族のくつろぎルーム」という場所で、思いっきり遊んでいてもらう。いい子だぞ。

さて、このプログラム、出演された合唱団はどの合唱団も実力派ばかり。どのステージもききごたえがありました。様々な作曲家が、谷川俊太郎の作品にアプローチしていくその種々の様相を見る中で、日本語そのものの豊かさ、詩情があぶりだされていくような、そんな感想を持ちました。

中でも、栗山先生と谷川俊太郎さんの対談はすごく面白かった。客席から軽やかに舞台にかけ上がってきた谷川さんには、70歳を超えた年齢は全然感じられません。いくつもの示唆にとんだ言葉がありました。(以下、ご発言のままではないですけど、書き留めておきます)

「70歳を越えちゃうと、愛という言葉に、嫉妬とか執着という感情がなくなってきましたね。」
「宇宙というのはね、昔は、真空で怖いものだ、と思っていたんですけどね。最近は、宇宙には色んなもの、原子や分子や、生命の源になるものが満ちているんだ、と思い始めました。そういう宇宙に愛されて、生命は生まれたんだと。」
「最近人間がどんどん楽観的になってきてね。昔は、日本の詩情には、かなしみ、というのが根底にある、と思っていたんですが、最近は、もっと明るい、楽しい詩を書きたくなってきました。そういう詩に曲がつくと嬉しいなぁ」
「日本語というのは詩に向いている言語だと思います。その分、散文に向いていない。」
「合唱のために詩を書き始めたのは随分昔からなんですがね。その頃は、なかなか歌の日本語が、客席に日本語として届かない、というのが課題だったんですが、本日の演奏では日本語が見事に届きますね。それだけ合唱の技術も向上した、ということでしょうか」

白いお洋服もあいまって、キューブリックの「2001年宇宙の旅」のラストシーンのボーマン船長のような、枯れているのだけれどもエネルギーに満ちている、そんな感じ。傍らにいらっしゃる栗山先生が、どこか人間味あふれるエネルギッシュな方なので、余計に、谷川さんの、どこか超俗的な、仙人のような雰囲気が印象的でした。(いや、別に、栗山先生が通俗的だ、なんてことは言ってないぞ)

宇宙人のような視点から、日本語という言葉を操ることで、日本語の持つ潜在力を引き出した方。それが、谷川俊太郎という人なのかな、と、そんな印象をもちました。

演奏については、冒頭に登場したGaia Philharmonic Chorの演奏に一番感動しました。もう少し、声や表現に、余裕というか、ただ声を出すだけじゃなくて、温かみや人間味のある声になるといいなぁ、と思ったのですが、それでも、素晴らしく美しい声と、見事な日本語の発音。松下先生の楽曲の美しさと迫力ある指揮(シャドウボクシングかと思った)もあって、「そのひとがうたうとき」は本当に感動しました。

お目当ての大久保混声合唱団の演奏は、ちょっとぱっとしませんでしたね。なかにしあかねさんの「生きる」なんか、後で歌われた三善晃さんの「生きる」よりも、悲壮感がなく、明るくて、その分詩のメッセージがきちんと表現されている、とてもいい歌だと思うんです。そうなんですが、歌の持っているカタルシスというか、「もうちょっとぐっと持っていってほしい」「もっと感動的になるはず」という所で、なんだか不完全燃焼、という感じがしました。声の色合いは相変わらず温かみがあって、とてもいい響きなのに、日本語がきちんと聞こえてこない部分もあり、どこかしら消化不良のような感じが残っちゃった。歌に向き合う時間があんまりなかったのかなぁ。

夜、TV東京の「なんでも鑑定団」(結構好きなんです)で、中島誠之助さんが、値打ちのない骨董品を集めちゃった人に向かって、こんなことをおっしゃっていました。

「モノにはね、まず、感動があるんです。本物のモノを見ると、その姿に感動する。その感動がまずあって、感動の元を調べていく、そこで知識が必要になるんです。まず知識から入るということは、骨董の世界ではありえないんです。まず、感動してください。」

女房ともども感激。そうなんだよね。全ての芸術作品には、感動がまずあるんだ。音楽なんかもまさにそう。まず、楽曲に対する感動があって、それから、楽譜の分析が始まって、自分の表現の分析がある。でも、根本にあるのは、自分の感動をどう表現するか。あくまで、根っこにあるのは、「感動」。

谷川俊太郎という詩人が紡ぎだす「感動」。これを音楽にしたい、と思った作曲家の「感動」が曲になり、さらに多くの人々の「感動」が生まれていく。谷川さんの言葉の中に、こんなお言葉がありました。

「詩というのは、非常に個人的な作業でね。そういう個人的なものが、これだけたくさんの合唱団の歌い手さんや、こんなにたくさんの聴衆の皆さんの中で共有されるっていうのは、なんだか奇跡のような気がしますね」

表現技法を磨くのは、そんな「奇跡」を、感動の連鎖を産み出すための手段なんだ。そんなことを考えた一日でした。