普通の合唱をやっていると、ラテン語の曲とかドイツ語の曲をよく歌うわけですけど、我々ガレリア座、というのは非常に奇妙なことをやっていて、外国語の曲を日本語の訳詞で歌う、ということをやっている。以前、大野さんがオーチャードホールでやった「仮面舞踏会」のリハーサルを見学させてもらった時、うちの女房が、「外国語で作曲されたオペラを日本語で上演することについてどう思いますか?」という質問をしたら、大野さんがすかさず、
「それは全く別のものが出来上がるでしょうね」
とおっしゃった。それは本当にその通りで、多分、外国文学を日本語に翻訳するのと同じように、全く別の芸術作品を作り上げていくプロセスなのだと思います。
ただ、そのプロセスにおいて、もとの音楽と原語の間の関係性、ということを常に留意しておかないと、音楽そのものが完全に変質してしまう。そこに訳詞家の苦悩もあるわけで、毎回のガレリア座の訳詞が非常に楽しいのも、訳詞家のMちゃんが音楽と日本語と原語の間の難しい綱渡りを、絶妙なバランス感覚でうまく渡っているおかげ。歌い手は歌い手で、与えられた訳詞と、元の原語歌唱との間を再び綱渡りしながら、自分の持っている音楽の感性に合わせて、その日本語をきちんと客席に届ける努力をしていくわけですが。
多分、そういうガレリア座という特殊な場所にいるおかげで、うちの女房は、原語と日本語のニュアンスの差やフレーズ感の差、それをすり合わせていく感覚が鍛えられたんじゃないかな、と思います。先週、大久保混声合唱団を女房が指導した時に、ラテン語の曲がどうもうまく歌えない。そこで女房が、
「じゃぁ、日本語に直して歌ってみましょうか」
と言い出して、その場で即興で訳詞を作って、この日本語で歌ってご覧、とやったそうな。そりゃあ合唱団の皆さんからすれば、外国語で歌っていたものを適当な日本語で歌う、という違和感があるから、最初はみんなケラケラ笑っていたらしいんだけど、日本語で歌った方がよっぽど上手なんだって。フレーズ感も決まるし、音程も定まってくる。そうやってフレーズ感が理解できると、もとのラテン語に戻しても、フレーズ感が保たれている。みんな、逆に、「ああ、そういう歌だったのか!」という気づきにつながって、びっくりしたんだそうな。
翻訳歌唱、ということにトライし続けてきた女房と、日本語歌唱、ということについて突き詰め続けてきた大久保混声合唱団の組み合わせだからこそできるアプローチなんだろうけど、面白い話だなぁ、と思って聞いていました。
例えば、外国語をポン、と渡された日本人が、その外国語をどう読むか、というと、やっぱり身についていない言語ですから、奇妙な読み方をします。よく、外国語には日本語にない母音や子音があるから、という、「発音」の話が中心になりますけど、実は一番大事なのは、そういう母音や子音ではなくて、「アクセント」と「イントネーション」だったりするんじゃないかな、という気がしています。
最近ずっと見直している「ちりとてちん」のDVDで、糸子さんが、順ちゃんに、「UNIVERSITY」という単語を示して、「これってどういう意味?」と聞くシーンがありました。面白かったのはこの単語を見た順ちゃんが、「ゆにばー『し』てぃ」と、「SI」に強拍を置いて読んだこと。そう読んだ方が、関西弁っぽくて、とっても順ちゃんらしかったんだけど(もちろん演技上、そういう読み方をしたんでしょうけど)、英語としては「ゆに『ばー』してぃ」ですよね。でもそういうイントネーションのとり方の違いが、その言語を原語らしく聞かせる一番の要因だったりする。
「例えば、Laudamus Te、という言葉があったとするよね」と女房の話。「子供の頃からグレゴリオ聖歌を叩き込まれてきた人なら、こういう言葉が出てきた時に、Te、というのは必ず大事な言葉で、神さまか、マリアさまか、イエスさまか、いずれにせよとても重要な単語だ、と知っている。Laudamus、と言う言葉が出てきたら、musは語尾だから、日本語の『てにをは』みたいなもので、強調されることはない、と了解している。」
でも、ラテン語に慣れていない人がいきなりこの言葉を与えられて、そこに、「ラオダームステ」というカタカナを当てはめてしまうと、色んなイントネーションが出てくる。歌の音程によって、「『ラ』オダームステ」になったり、「ラオダー『ム』ステ」になったり、必要以上に「テ」が投げやりになったり・・・
そこに、きちんと「ラオ『ダー』ムス『テ』」というイントネーションを意識できる日本語を当てはめてあげると、急にその音楽のフレーズ感が理解できたりする。もちろん、音楽のフレーズの中で、そういうイントネーションを持った適切な日本語を思いつく、というのは、そんなに簡単な作業ではないのだけど、そこは、ガレリア座で、フレーズにしっくりくる日本語のイントネーションや、「てにをは」の配置なんかを研究してきたプロセスが活きてくるんですね。
昔、大学の時所属していた白ばら会合唱団という所で、私が以前歌った、ブラームスの「運命の女神の歌」という曲を取り上げたことがありました。以前歌ったことがある人、ということで、OBの私がみんなの前でその詩を原語で朗読したのだけど、結構上手だと誉められた。誉められた理由というのが、別に発音が綺麗だった、というわけじゃなくて、単に歌のフレーズ感通りに読んだからなんですね。
この曲の頭の歌詞である、Es Fyrchte die Goetter das Menschengeschlecht!を、
「エス フュルヒテ ディー ゲーテ ダス メンシェンゲシュレヒト」と読むか、
「エス 『フュー』ルヒテ ディー 『ゲー』テ ダス 『メー』ンシェンゲ『シュレー』ヒト」と読むか、
という違いなのだけど、後者で強調されている母音は、全てブラームスの曲の中でも強拍が置かれている所。逆に、強調されない単語(dieとかdasとか)は強く読まない。それはゲーテの原詩にきちんとついている強弱の拍感で、ブラームスの曲はその強弱をきちんと活かして作曲されている。つまりは、「歌うように読めば上手に読める」ということなんです。
原語のイントネーション、アクセントを理解すれば、音楽のフレーズ感が分かる。音楽のフレーズ感に沿って原語を読めば、原語の持っている強弱の拍感が分かる。それはそうなんだけど、なかなか音楽のフレーズ感は身につかないし、原語の強弱の拍感というのも身体で分からないもの。
そういう、中々うまくつながらない原語と音楽のフレーズ感を、日本語でつないでみること。原語の持っている強弱の拍感と同じ拍感を持つ日本語を見つけて、その日本語でフレーズを歌ってみる・・・音楽表現の中で、唯一「言葉」を持つ音楽表現としての歌唱。その「言葉」に近づくアプローチとして、ちょっと面白いやり方だなぁ、と思います。もちろん、原語の持っている拍感と同じ拍感を持つ日本語、音楽のフレーズ感にしっくりくる日本語を見つける、というのは簡単なことではなくて、ずっとガレリア座で日本語歌唱にこだわってきたことで、意外な能力が身についてきた、ということなんですね。やっぱり、「出てくるもんは、塗り重ねたもんだけ」なんだなぁ。(結局「ちりとてちん」かよ)