「そして船は行く」〜虚構だからこその真実〜

週末のインプットを例によって並べましょうか。

・テレビをつけると、なぜかやたらと、真島茂樹さんがマツケンサンバの振付指導をしていた。
・以前に録画して、中々見られなかった、「そして船は行く」をやっと見る。
・愛媛での全日本合唱コンクールの、金賞団体のCDを聞く。同じ楽曲なのにこんなに違って聞こえるものか。

今日は、「そして船が行く」の感想を。

フェリーニについては、以前、この日記でも何度か触れています。「そして船が行く」も、フェリーニ節全開、という感じ。記者がインタビューを行う、という得意の構成。一癖も二癖もありそうな登場人物たちの群像劇。全体が暗喩に満ちた状況設定。

最近あんまり頭を使わないことが多いせいか、ラストシーンの暗喩が難解で、ちょっと消化不良の感じが残っています。「オーケストラリハーサル」に通じるような、どこかに政治的な寓意を含んでいるような感じ。そこが理解できないもどかしさのようなものが、消化不良の感想につながってしまった気がします。

そういう政治的な寓意が理解できなかったのは別として、この映画は、まさしく「映画のための映画」なんだな、というのは理解できました。後期の「インテルベスタ」や、「ジンジャーとフレッド」が、映画を滅ぼす産業としてのTVについて描いた作品だったように、「そして船が行く」は、まさに滅び行く映画に対するオマージュに溢れている。そして、フェリーニがとらえる「映画」の映画たるゆえんというのは、「作り物であること」に一つの集約がある気がするのです。

映画の冒頭で、無声映画時代からの映画の歴史を振り返る展開から、明らかに作り物と分かる海の光景、そこを突き進む豪華客船のミニチュアから、最後のチネチッタの撮影風景を撮った「ネタバレ」映像まで。全てが、「僕は作り物です」ということを強烈に主張している。決してリアリズムに走らない。それは、音と映像のシンクロ部分において顕著です。

題材がオペラ、ということもあって、この映画では、至るところで、オペラの合唱やソロが演奏されるシーンが出てくる。出てくるのですが、そこで、歌手を演じる人の口と、聞こえる歌は、恐ろしくわざとらしく「合ってない」んです。口にしている言葉とかは合ってるし、唇の動きもある程度は合ってるんですが、おおむね、演技の方がすごく大げさに作ってあって、実際に歌っていません、というのをきちんと見せているんです。

普通のセリフの部分でも、かなり意図的に、「アテレコです」というのが分かるような感じで作ってある。とにかく徹底的に、スタジオで人工的に作った世界です、これは嘘です、というのを全編で主張している。これは「虚構です」と主張し続ける映画。それは、「映画ってのは虚構です」という主張。そして逆に、「虚構だからこそ、真実が描けるんでしょ?」という強烈な逆説を投げかけてくる、そんな屈折した映画。「私は嘘つきです」という、嘘つきのパラドックス、という哲学上の命題がありましたね。まさにそういう逆説的な映画。

少し前の日記で、「コジ・ファン・トゥッテ」において、虚構の愛、演技の愛が、いつしか真実の愛に変貌してしまう皮肉、という話を書きました。「コジ」においては、そもそもの設定として、「いくら変装したからって、自分の婚約者を見間違えるはずがないでしょ?」という、リアリズムからは許されないような、「虚構」が前提されています。でも、その「虚構」こそが、真実を語ってしまう、その逆説。

「そして船が行く」は、全編が、「私は虚構である」ということを強烈に主張している映画。しかし、その中に描かれる人々の、なんて人間臭く、なんてリアルなことか。そしてまた、作り物然として存在しているビニールの海の上に沈む夕日と、その反対側に広がる夜空のシーンが、作り物然としながらなんて美しいことか。黒澤明の遺作になった「まあだだよ」のラストシーンの、作り物然としながらも本物以上に本物らしい、胸が熱くなるような美しい夕焼けのシーンを思い出しました。

映画というのは、大勢のスタッフによって作られる壮大な虚構の世界。その虚構の世界を虚構として作り上げることで、描かれる真実がある。描くことができる美がある。だからこそ、映画は面白い。フェリーニのそんな映画への愛情が濃厚に反映された、「映画のための映画」。

そして、それが、かつて栄光に満ちたオペラ歌手の葬儀、として描かれている。フェリーニ自身が、「私の愛した映画はもう終わった」という思いで、この映画を撮っているのでは、と思わせる、そういう仕掛け。フェリーニが、現在のCG全盛の、なんでもありの映画を見たら、こんなの映画じゃないよなぁ、とため息つくでしょうねぇ。雑然とした撮影所の中ではなく、パソコンの中のワイヤーとパレットが描き出す画面。そんなの、映画でもなんでもないじゃん。フェリーニがそうやってぼやいているのが聞こえてきそう。

しかし、イタリア人にとって、オペラってのはやっぱり高い声出してなんぼ、という芸術、というか、芸能なんですね。機関室での歌合戦のシーンは、あまりにバカバカしくて笑ってしまいました。