娘が掛け算の九九を習い始めました。2年生で勉強する算数の2つ目のヤマだね。1つ目は、「素過程」という足し算引き算のパターンを覚えるもの。「11−5」とか、「5+9」といった繰り上がりの足し算引き算を、考えなくてもすぐに答えられるように暗記する。2つ目が、この掛け算の九九。
こういう、「とにかく暗記する」ことを、「詰め込み教育」というなら、この「詰め込み教育」って結構大事なことだと思います。九九も勿論そうなんだけど、英語などの語学も、とにかくどこまで、単語や活用やイデオムを「詰め込む」か、の勝負です。それがないと何も始まらない。世の中で、詰め込み教育は悪だ、もっと考える教育を、なんて言いますけど、考え、感じるためには、まず、基礎になる知識をとにかく詰め込む必要があるんです。
そういうことっていうのは、教育の分野だけじゃなくって、芸術の世界にも確実にいえること。小学校や中学校の時に、意味も分からずいわゆる「古典文学」に触れておくこと、というのは、大人になってから色んなことを考えたり、感じたりする上で、ものすごく大切な基礎になる。
例えば、今ガレリア座でやっている「美しきエレーヌ」ですけど、これなんか、ギリシャ神話やホメロスを知らないと全然意味が分からない。笑えるはずのところで全然笑えない。うちの娘は逆に、「美しきエレーヌ」から入って、今、「ホメロース物語」という子供向けの本を読んでいますけど、そういう入り方でも何でもいいから、よく分からない子供の頃に、古典名作の類を読んでいないと、様々な芸術作品への理解の深さが全然変わってきてしまう。
うちの女房の実家には、女房が子供のころに愛読していた、子供向けの古典名作全集という分厚い本が60冊近くあって、これが全巻、我が家に送られてきました。女房は、「私はこれで高校時代まで乗り切った」と言い切っている。ホメロース物語もそうですし、ギリシャ神話や日本神話、世界の民話、他にも、ガルガンチュア物語からドリトル先生航海記まで、様々な古典の名作がテンコ盛りになっている全集。確かに、これをきちんと読んでおけば、色んな意味で「基礎になる教養」は身につけることができる、と思います。
西洋の芸術を理解しようと思ったら、ギリシャ神話と聖書の物語は一通り知っておかないとダメ。中国や日本の芸術を理解するには三国志や史記のエピソードを、ある程度は知っておかないとダメ。そういう基礎の教養というのは確実にあって、興味があろうがなかろうが、必ず「詰め込」んでおかないといけないもの。
私の経験で言うと、大学一年の時に、思い立って年間100本以上の映画を見たのが、個人的な財産になっていると思います。特に、黒澤・ビスコンティ・フェリーニの作品をかなり集中して見たのは、ものすごく大きな財産になっていると思う。今になって考えると、当時さほど作品の意味を理解していたとは思えないのだけど、この年になると、フェリーニ映画の祝祭性に共通するイメージが、様々な芸術作品やオペラの背後に見え隠れするのも面白い。そういう見方ができるようになったのは、あまりきちんと理解もできずにひたすら「詰め込」んだ映画のおかげだと思っています。
音楽でも、娘が意味も分からずバイエルを練習していますが、女房に言わせれば、「これで、曲というのがどういう構成で出来上がっているのか、というのが知らず知らずに身につくんだよ」とのこと。実際、娘がデタラメ曲をピアノでピンパラ弾いていたりしますけど、どこかで曲らしく仕上げよう、とする瞬間があって、こうやって身につくんだなぁ、と感心することがあります。
勘三郎さんが、若い頃に唐十郎さんのお芝居を見てものすごく感激して、お父さんに、「ああいうのをやりたい!」と言ったら、「まだ早い」と一喝されたそうです。そのことを思い出して、「古典歌舞伎の型をきちんと身につけていない若い頃に、そういうことをやってもダメなんだよね」と言いながら、
「型を身につけないでやっても、結局『形無し』になっちゃうんですよ。型を身につけた人がやれば、『型破り』になれる」
とおっしゃっていて、うまい言い方だなぁ、と感心。
「型」や「基礎」というのは、頭で考えるよりも身体で覚えること。基礎の教養というのもそうなんです。頭で考えるよりも、ひたすら覚える。多少意味が分からなくてもいい。そういう「詰め込み」教育を回避してしまったら、基礎のないフニャフニャの土台の上に軟弱な掘っ立て小屋を建てたような、中途半端な人間が出来上がるばっかり。そういうこともきっちり理解した上で、「考える教育」だのなんだのを語って欲しいと思う。