東京室内歌劇場の「哀れな水夫」「声」を見る

先日、シアターテレビジョンで放送されていた、2002年9月に東京室内歌劇場が、新国立劇場でやった公演の映像を見ました。コクトー二題。今日はそのお話を。
 
『哀れな水夫』
作曲:ダリウス・ミヨー
台本:ジャン・コクトー
芸術監督:若杉弘
指揮:佐藤功太郎
演出:中村敬一
出演:経種廉彦、岩井理花、堀野浩史、多田廉芳/仏語
 
ミヨーという作曲家は、以前大船渡でやった「蔵しっくこんさぁと」の幕間の間奏曲ということで、ピアノ、クラリネット、バイオリンの三重奏を聞かせてもらったことがありました。これが本当にお洒落な曲。「哀れな水夫」は、コクトー+ミヨー、ということで、一度見てみたいなぁ、と思っていたのです。

まぁ救いのないお話ですよね。帰らぬ夫に対する幻想と、その夫の他愛もない嘘、という、現実と乖離した部分で生まれた虚構が、現実世界に取り返しのつかない結果をもたらしてしまうアイロニー。冒頭で女が踊る祝祭的な音楽も含めて、全編の中で、「虚構」が語られている時間の方が、「真実」が語られている部分よりも長く、かつ印象的。だからこそ、ラストシーンで、現実としての「死体の重さ」というのが、ずっしりと効いてくる。舞台中央に、海の底を思わせる裂け目のような空間を設けて、海の中から「異物」としての男がやってくることで生まれるドラマ、という構造が明確。シンプルながら、印象的な舞台でした。

岩井理花さん、美しいのに、なんだか場末のくたびれた感じと、情の強い激情の表現が、なんともフランス女っぽくてよかったなぁ。
 
『声』
作曲:フランシス・プーランク
台本:ジャン・コクトー
日本語台本:若杉弘
芸術監督:若杉弘
音楽監督佐藤功太郎
演出:中村敬一
出演:釜洞裕子/日本語
 
うちの女房はフランスものが好きで、中でも、プーランクは大のお気に入り。「声」も、女房から、面白いオペラだ、という話をさんざ聞いていたので、以前から一度きちんと見たい、と思っていたのです。今回、やっとちゃんと通してみる。

お話はよく分からんですね。そういう多義的なところが、コクトーらしい、というべきか、フランスらしい、というべきか。フランスの戯曲家で、ギィ・フォワシイという脚本家がいて、彼の「チェロを弾く女」というモノローグドラマがありますが、それとも共通するフランスの「狂気の女」の類型。女房に言わせると、色んな解釈があるそうで。

いわく。「女は男と別れたばかりだが、未練で自殺を図りそうになっており、男はその話を聞いて、様子を確かめようと電話する。」うむ、わりとまっとう。別の話。「女は男と別れ、自殺を図る。その直前、男から電話がかかってきたという幻想に取り付かれる。すなわち、これは全て、死ぬ前の女の幻想のドラマである。だから男との会話は支離滅裂で、その幻想の中でも、世間を代表する外部者が『混線』してくるなどの障害に悩まされる。」なるほど。「これは女の話じゃない。女はこんなに未練たらしく、ぎゃーぎゃー喚いたりしない。女にはもっとプライドがある。これは、男に振られたコクトーの愚痴をそのまま書きとめたものである。」・・・えっと、ちょっと待っとくれ。ボク、わ、わりと真面目な思考回路しか持ってないので、あんまり飛躍されるとついていけないの。最後の解釈は、友人の女性裁判官、Kさんのご意見でした。

若杉弘の日本語台本は実に見事で、その日本語を、釜洞さんが、明確なセリフ、明確な歌として届けてくる。歌とセリフが渾然一体となった表現。釜洞さんは、この「声」の主人公にふさわしい、盛りを過ぎて少し熟しすぎた女の色気と退廃感を、余すところなく表現している。それでいて、崩れすぎない、どこかで毅然とした美しさも保っている。松阪慶子さんみたいな貫禄と色気。すごいなぁ。

楽譜も勉強したことがある女房は、「ところどころ、日本語に合わせて音程とか音符をいじっているね」と言っていました。翻訳、という違和感は全くなく、また、音楽と芝居の違和感もなく、「一人芝居」の舞台を見たような、実に濃厚な感覚。それでいて、ちゃんと音楽として完結している。素晴らしい舞台でした。

2つの現代フランスものを見て、ふと思ったのは、「2重唱、3重唱とかがないなぁ」ということ。スケールの問題もあるのかしら。でも、先日ちらりと見た三枝成彰さんの「ジュニア・バタフライ」でも、ほとんど重唱がなかったんだよね。ほぼ全編が独唱。会話ではあるんだけど、お互いのセリフが絡まない。ヴェルディなんかがよくやる、上手でテノールが怒ってて、センターでソプラノが嘆いてて、下手でバリトンがほくそ笑んでて、後ろで合唱やら有象無象がびっくりしてる、なんていう、複数の感情やセリフが一杯絡みあうような、重唱、という表現がない。現代オペラをよく知らないんですが、「重唱」という表現はあんまり流行らないんでしょうか?確かに、セリフが明確にならない、ということで、コクトーのような、演劇と音楽が一体化した作品には向かない表現手法なんでしょうけど。

ラストクレジットを見ていたら、副指揮者のリストの中に、角田鋼亮さんの名前を見つける。いい仕事をされているなぁ。しかし、ピアノ伴奏で演奏されている「声」の副指揮者っていうのは、なんだかすごく濃密な仕事になるんでしょうねぇ。