昨日、随分前に購入していた「ゲド戦記外伝」を読了。ゲド戦記の4巻「帰還」から、ずっと感じていた違和感が、全部ではないにせよ、かなり払拭された気がしました。そしてそれ以上に、なつかしいアースシーの世界に戻ってきた心地よさを、十二分に堪能することができました。
「ゲド戦記」については、以前この日記に書いたことがあったと思います。確か、小学校の高学年か、中学生くらいの頃に出会い、その世界観とダイナミックなストーリに完全に陶酔してしまいました。以前、この日記に書いたときには、「ゲド戦記は、第3部で完結している」と言い切りましたよね。今回、「ゲド戦記外伝」を読んで、その考えが変わったか、というと、そうでもない。やっぱり、「ゲド戦記は、第3部で完結している」と思います。
では、第4巻「帰還」以降の物語は、ただの後日談だったのか、というと、「外伝」を読んでやっと、そうではないのだ、ということに気づきました。第4巻以降の物語は、アースシーを舞台とした、全く別の物語。そして、その物語は一貫して、一つのテーマを提示している。言って見れば、第三巻までの物語が、「アースシー物語1」であり、第4巻以降は、「アースシー物語2」、として受け取るべき。
そして、「アースシー物語2」のテーマは何か、というと、それは、「結婚」なのだと思うのです。以前、ル・グィンの「闇の左手、光の右手」を読んだとき、「結婚」が彼女の一つのテーマなのだ、という文章を読んだことがあった気がする。そのテーマが、「アースシー物語2」において、非常に前面に出ている気がするのです。
「アースシー物語1」において、光と闇の結合、という「結婚」を描いたル・グィンは、「アースシー物語2」において、一貫して、「男と女の結合」というテーマを追求し続けているように思います。「帰還」において、ゲドとテナーが結ばれることで、ゲドは、さらに完全な人間として生まれ変わる。「アースシーの風」において、ついにカルガドとアーキペラゴが、レバンネンの結婚という形で結ばれる。テーマは常に、男女の結びつきなのです。
「外伝」の物語の多くが、男女の結びつきをテーマにしている。唯一の例外が、「地の骨」で、これはまさに「外伝」というのにふさわしい、ゲドを巡る人々の挿話なのですが、それ以外の物語は全て、男女の理想的な関係を軸にしています。時代の要請、というべきなのでしょうか。ル・グィンが、「闇の左手、光の右手」で、非常に屈折した形でジェンダーの問題を取り上げて以降、30年の時を経て、やっと彼女は、正面からジェンダーの問題に向き合ったのだと思います。
しかしながら、それこそが、第四巻以降の物語に対する「違和感」につながったのだと思うのです。竜につながる女性として描かれるテハヌーもアイリアンも、男性から迫害されたり、男性と対決したりする。その対決は、最後まで解決されない。テハヌーもアイリアンも孤独なままのような気がする。女性の中にある原始の力が、世界を一つにする、というテーマ自体は頭では理解できるのだけど、どこかに、女性の力を強調することが、男性に対立・対決する力としての女性、という観念から抜けきれていない気がするのです。
それは、以前この日記で書いた、「クジラの島の少女」の感想でも書いたこと。女性が過去、迫害され、圧迫されていたが故に、女性の力を強調しようとすると、どうしても、男性との対決姿勢が明確になってしまうのかもしれない。そこが、どうしても、「アースシー物語2」に、男性としての私がのめりこめないでいる原因かもしれません。女性が読むと、多分全然話が変わってくるかもしれないなぁ。特に、アイリアンの話なんか、女性が読むとすごく面白いんじゃないか、と思います。
そういう感想を持っているせいでしょうか。「外伝」の中では、男女のテーマから離れた「地の骨」が一番好きでしたね。オジオンの最後のセリフがすごく泣かせる。他の短編も、アイリアンの話以外の話は、先鋭化した男女の関係、というよりも、もっと穏やかな男女のあり方を描いていて、とても優しい気持ちで読むことができました。
男女のあり方、というテーマは、やっぱり難しいんですね。ル・グィンの手をもってしても、一筋縄ではいかないんだなぁ。自分自身に備わった原始の力に気づいた女性たちは、次々と竜に変じて飛び立っていく。そして残された男性は、いったいどうすればいいのでしょう。そんなことを考えてしまった本でした。