技術と情熱と表現

本番が近づいてきて、色んな方から激励の言葉などが届くようになりました。でも、本人は全然実感がないんです。今までの舞台と比べても、全然実感がない。仕上がりが遅くて、出来上がっている舞台があまりにも未完成だからだと思います。ある程度の完成形が出来上がってくると、「この完成形が、オレのミスで崩壊したらどうしよう」なんていう余計な「失敗のイメージ」が膨らんできてしまって、本番直前の緊張につながってくる。でも、今回は、自分の中で全然、完成形が見えていないんです。「成功したイメージ」がないから、「失敗のイメージ」も作れない。非常に情けない状態。先日の通し練習を録音して聞いてみたのですが、嫌になるくらいに自分の歌に推進力がない。音を出すので精一杯、という感じ。オケの方がよっぽど軽やかに歌っている。その上から、私の声が漬物石のように乗っかっている。オスカルになりそこなったオカマの漬物石。なんじゃそりゃ。

じゃあ、軽やかに、推進力を持って歌おう、と思ったらどうするか、といえば、楽しくスキップでも踏みながら歌うといいか、というとそうじゃないんだよねえ。確かにそういう解決方法もないわけじゃない。実際、なかなかリズムに乗れない時に、「全員で足踏みしながら歌ってごらん」という指導を受けることがあります。でも、実際の演奏会で足踏みしながら歌うわけにはいかない。とすると、足踏みをしながら歌ったときの体の状態、リズムの感じ方を、足踏みをしないで再現する、という「技術」が必要になってくる。

①リズムに乗れない→②足踏みをする→③リズムの感じ方のイメージができる→④再現する、というステップを踏むわけですけど、風邪の治療みたいなもんです。①がセキの症状。②がセキを抑える薬。③が、ウィルスと戦うための体力ができる過程、④で、その体力でウィルスをやっつける。ウィルスそのものをやっつける抜本的な治療法なんかない。対症療法で、ウィルスをやっつける体の環境を作ってやるだけ。

そういう治療法というのはそれこそ山ほどあって、優れた合唱指導者や歌唱指導者は、そういう治療法の引き出しを一杯持っています。そして、優れた歌い手、というのは、そういう治療法を受けた時に、即座に、体の状態や歌のイメージを作ることができるもの。それが、「技術」。

以前にも書いたかもしれませんが、ガレリア座には、プロの指導者がいません。演出家のY氏は、非常に優れた「観客」で、舞台上に足りないもの、何が問題か、というのを鋭く指摘してきますが、具体的な解決方法を逐一示してくれるわけじゃない。音楽監督のN氏も、非常に優れた「耳」の持ち主ですが、オケの出身なので、歌唱技術についてのアドバイスはあまりできない。とすれば、指摘されたことの解決方法は、歌い手自身が自分で考えて、解決していくしかないんです。ガレリア座はそうやって、10年間モノづくりをしてきた。

言ってみれば、「あんた、セキがひどいねぇ」と言われるだけ。でも、自分がセキをしている、という自覚が持てないのが、歌い手というものなので、そうやって指摘される、ということもすごく大事なことなんです。でも、もっと難しいのはその先。セキを抑えるための治療法も、ウィルスをやっつける体力も、全部、自分で考えて、自分で実現しないといけない。それはやっぱり、「技術」なんですけど、我々素人には、いかんせん、そういう「技術」がない。

となると、あとは、「気力だ!」「情熱だ!」という話になってきます。風邪のたとえで言えば、「気合で熱を下げた」なんて体育会系の人がよく言うセリフに近い。技術のない我々素人が、プロの舞台と同じくらいの感動をお客様に与えるためには、結局、こういう「情熱」に頼るしかない。

でもねぇ、やっぱり「技術」は大事だし、色んな指摘を受けたり、「ああ、これが出来てないなぁ」と思った時に、それを技術的にはどうしたらいいのか、と考えることも大事なんだよね。楽しそうな歌を歌うときに、楽しい気分になる。悲しい歌を歌うときに、本気で涙を流す。そういう情熱だって大事かもしれないけど、「ああ、この人は本気で涙を流しているんだ」「ほんとに楽しそうだ」と、客に思わせるように歌ったり、芝居をする、というのも、やっぱり技術なんだよ。

大事なことは、そういう「情熱」にせよ、「技術」にせよ、人が与えてくれるものではない、ということ。ガレリア座のようなプロの指導者がいない団体に限った話、ではないと思います。どんな場所であっても、どんな団体であっても、表現者として舞台に立つ以上、指摘されたことをクリアするためには、自分自身の「情熱」と、自分自身の「技術」で、解決方法を見つけていかなければ。