音楽指導ってのは面白いなぁ

女房が、大久保混声合唱団の下振りをすることになって、その週末の予定を相談していた。私が、「練習直前とかに、近くの喫茶店で2時間くらい、予習のための時間があると嬉しい?」と聞くと、女房は、「曲の指導の予習なんか、喫茶店じゃできないよ」と。

「曲の予習はね、なんとなくその曲のことを頭でイメージしたり、ふと思いついた他の楽譜や音源をアレコレ確認してみたり…ってことも必要なのですよ、私の場合。特に指導のネタを練る場合はね。その曲だけとにらめっこってわけではないので、やっぱり家でやらないとだめなのだよ。」

なるほどなぁ、と、ちょっと、面白いなぁ、と思いました。そういえば、「のだめカンタービレ」で、千秋くんが、ブラームスの1番の指揮の勉強に没頭しているとき、身の回りになぜかシューベルトだのなんだの別の作曲家の楽譜が散乱していて、のだめちゃんが、?となる、という場面がありましたよね。あの場面を見た時には、楽曲のアナリーゼのために参照しているのかな、と思ったし、それも一つの目的なんでしょうけど、多分それだけじゃない。

一つの楽曲に取っ組んでいると、色んな別の曲のフレーズがふっと浮かんできたりする。それが元の楽曲の理解に一つのヒントを与えてくれたりする。それは同じ作曲家のものとは限らなくって、指導者の中でランダムにON/OFFされた連想のスイッチの中から浮かび上がってきた、まるで違う楽曲だったりするし、ひょっとしたら、音楽とは全然違う分野の芸術や情報かもしれない。そういうイメージを数多く収集していって、なるべくその楽曲に対するイメージの引き出しを広く広くしておく。その「イメージの森」の中から、実際の指導の場に立ったときに、合唱団の反応に合わせて、色んな「使えるイメージ」をぶつけていく。多分、そういうプロセスなんでしょうね。

ある作家が、「1冊の本を書くためには、膨大な本を読破しなければならない。その膨大な本の代金を支払うために、本を書く。その本を書くために、また膨大な数の本を買う。無限地獄だ」みたいな文章を書いていたのを読んだことがあります。しょうもない例かもしれないけど、以前「ガレリア座」の公演ちらしのイラストを書いたときに、1枚のイラストを描くのに、色んな資料を10冊以上積み上げて、あっちを見たりこっちを見たりしながら描いた記憶がある。そういうものが頭の中に全て入っていて、すぐに引き出しから出せる状態になれば、まさに名人なんだろうけど、誰だって生まれながらの名人じゃないから、まずは、引き出しの中に色々と詰め込むプロセスが必須だよね。

舞台の演出をしたり、台本を書いたりする時にも、色んな資料やイメージを漁ります。それは、他の舞台からのインスピレーションの場合もあるし、日常のちょっとした仕草や、舞台とは全然関係のない刺激だったりする。逆に言うと、一つのものを作り上げる時には、そういう膨大な「イメージの森」を、自分の中で膨らませていく作業が必須。このイメージが豊かであればあるほど、表現には深みと陰影が生まれる。

役者さんの中には、セリフを読むときに、どのセリフも全部おんなじに聞こえてしまう人ってのが結構います。私自身も、女房によく言われるのが、「どのセリフの間もテンポも同じになってるよ」というダメだし。一つ一つのセリフ、一つ一つの言葉の背後に、それぞれの豊穣なイメージが膨らんでいれば、全部の言葉の音色・間が全部違ってくるはず。それと同じように、「こんにちは」という一つのセリフでも、イントネーション・声色・テンポのヴァリエーションはほとんど無限にあるはず。その無限のイメージの中から、「これしかない」という「こんにちは」を選択していく、それも、創作の重要なプロセス。

イメージを思いっきり広げること。その無数のイメージの中から、これしかない、というイメージを選択していくこと。クリエイティビティってのは、そういう、拡大と選択のプロセスをどれだけダイナミックに実行できるか、というところにかかってくるんですね。