オセロって割と好き

先日、例によって仕事で深夜帰宅し、女房と二人でぼんやりTVを見ていたら、「きらきらアフロ」をやってました。鶴瓶さんとオセロの松嶋さんが延々と無駄話をしている。これが滅法面白い。昔懐かしい「パペポTV」そのままのノリなんですが、上岡竜太郎の衒学的な感じがなくて、ひたすら、鶴瓶さんと松嶋さんの話術の巧みさに引き込まれてゲラゲラ笑ってました。

オセロの中島さんと松嶋さん、って、結構好きなんですよ。美人だ、というのももちろん財産なんですけど、すごくスマート、というか、知的な感じがする。どんなにバカやっても、「芸」としてみせる一線をはずしてない感じがする。そういう感覚って、鶴瓶さんにもあって、だから二人の掛け合いが面白いのかもなぁ。

舞台表現、映画やドラマ、という世界では、カメラアングルや演出によって、生の自分ではない、「人に見せるための自分」を装うことができる。でも、TVのバラエティ番組とかトーク番組なんてのは、出演者の「生の姿」をどれだけさらけ出すか、という所で勝負しているようなところがある。タレントの万引き経験を放送しちゃった、というニュースがありましたけど、「生の姿」をさらそうとするあまりに、どんどん節操がなくなってる気がする。「人に見せるための自分」を作る芸にたけた人を押しのけて、素のまんまの自分をさらけ出す人間がブラウン管にしょっちゅう現われる。「素人」と言う言葉って、よくできた言葉だよね。「素」のまんまなんだもの。

鶴瓶さんやオセロや、明石屋さんまさんなんかに共通する「芸」の感覚、というのは、ブラウン管の中でいかにバカをやっても、「人に見られている自分」「人を楽しませている自分」を常にきちんと意識している感覚なのかな、と思います。決して「素」にならない。だから、素人芸にならないんです。

昨日の練習の後の飲み会で、以前この日記にも書いたShu1氏と話していました。彼が、「休符の中にもみっしりと何かが詰まっているような演奏、全ての音符にきちんと意思がある演奏」がいいんだ、という話をしていて、それって要するに、舞台上で「素」に戻っちゃう瞬間がない、というのと同じ感覚なのかもな、という気がしました。人間、ずっと何かしら表現し続けることっていうのは大変なことなので、舞台上にいても、ほんとに何もしない、何も考えていない瞬間、というのができてしまうことがあります。作家性の強い演出家の中には、そういう瞬間こそが人間を表現している、と、極力、役者に「何もさせない」方もいらっしゃるようですが、それも、表現することの究極の姿であるべき。やっぱり、まずは「常に表現し続けること」なんですよね。

松嶋さん、というのは、オセロの2人の間でもボケの役割をしている方だと思いますし、バカっぽい姿を見せることが多いんですが、そういう自分を見せる「芸」にとても長けた方だなあ、と思います。お二人とも今風の美人なのに、今風の女性タレントに共通する「素人」くささがなくて、きっちり「芸人」として仕事をしている感じがいいよね。