「ダメ出し女」の効用

昔好きだった映画で、「Wの悲劇」というのがありました。いまや名匠の域に達した澤井信一郎監督の出世作薬師丸ひろ子はどうでもよかったんだけど、彼女に向かって、昔役者をやっていたという設定の世良正則が、役者仲間の死に接した時のことを語るモノローグがあります。友人でもあり、ライバルでもあった仲間の死に接して、彼は号泣するのですが、その時、自分の中にいるもう一人の自分がささやく。「その握りこぶし、もっと力強く握った方がよくないか?」「その泣き方、確かに感動的だけど、ライバルがいなくなった、という安心感みたいなものも加えた方がよくないか?」彼がいくら本気で、死ぬ気で泣きたいんだ、と思っても、自分の中にいるもう一人の自分が、どこか醒めた視線で自分を見ている。

三連休、ガレリア座の練習も最後の追い込みです。今までギクシャクしていた部分がかなり整理されてきて、各シーンの緊張感が次第に高まってきました。もう少し早くこの状態になればよかったのですが、とにかく残りの時間で、一気に仕上げていかないと。

最近の練習で常に思うのは、自分自身を客観的に見ることの難しさ。舞台上に立っている自分が、どのように見えているのか、どんな声で歌っているのか、どんな風に動いているのか、それをリアルタイムで自覚することの難しさ。以前、この日記で、「歌というのは、自分の出している音がリアルタイムで奏者に確認できない唯一の楽器」という話を書きましたけど、自分の舞台での立ち姿や、所作についても、同じことが言えるんです。目の前に鏡を置いていたとしても、それでも、自分の所作をきちんと確かめながら動くのは難しいこと。ましてや、鏡のない場所で、自分の動きや声がどう届いているのか、ということを確認することは本当に難しい。

今回の演目、私の所作を、後ろで非常に厳しい目で見てくれているのが、合唱で参加している女房です。先日も、手のひらの広げ方、指先の見せ方について、少し口論。私は、「すごく気をつけて見せているつもりだ」といったのですが、女房は、「出来てない。君は気をつけているつもりになってるかもしれないけど、以前のヘンな癖が残っている」と言い張る。そんなわけはない、オレはちゃんとやってる、と思って、昨日の練習に臨み、ふと自分の指を見たら、醜く曲がっている。なんてこった。完全に無意識の動作が、自分の所作をしまりのないものにしている。自分では全然気づいてない。むしろ、カッコいい姿勢をしているつもりになってた。

我が家では女房のことを「ダメ出し女」と呼んでおります。こう書くと「口裂け女」みたいだね。喫茶店とかで、女の子を口説いていたら、突然隣の席から「全然ダメェ!」と口説き方の所作やセリフの指導を始めるんだ。怖いぞぉ。

・・・なんてことを書くと、女房に怒られてしまうのですが、こういうダメ出しをきちんと、的確に出してくれるパートナーがそばにいてくれることが、私のつたない舞台人生の中で最大にして最高の宝なんです。自分自身を客観的に評価してくれる視線。それがないために、自己満足や、「できているはず」という思い込みで、まるで成長しない人もいれば、いくらやっても同じ見苦しい所作を繰り返している人もいます。本人は、それがカッコイイと思っちゃってるから、変えようがないんだよね。常に、「今の所作は本当に美しいの?」「今の動作は本当に必要なの?」「今の発声で、本当にいい響きが届いているの?」と問い続ける「ダメ出し女」を、自分の中に持つこと。そして、どうやればいいのか、という正解を、常に模索し続けること。本番が終わるその瞬間まで、常に自分自身に問いかけ続けなければ。