コミュニケーションとストレス その2

昨日、インフルエンザがやっと治って、久しぶりに娘が幼稚園に登園してみれば、35人のクラスのうち20人が風邪やインフルエンザでお休み。担任の先生までインフルエンザで倒れ、今日から幼稚園はとうとう閉鎖してしまいました。なんてこったい。仲良しの男の子にチョコレートはあげられたけど、今日から3日間、またおうち暮らしです。

以前、コミュニケーションの難しさと、それが生み出すストレスのことを書いたことがありました。コンテクストを共有していない人との会話が生み出すストレスのこと。最近、そういうストレスを感じる局面がやたらと増えてきました。仕事もそうですし、ガレリア座の練習でもそうです。

ガレリア座の練習は本番が近づいてきていて、仕事もヤマを迎えている、というのが大きな要因だと思います。ひとつのモノが完成に近づいてくると、粗い形の段階では目に付かなかったズレや、完成された体系の中で、認識が違うことによる不具合などが目に付くようになってきます。それを指摘したり、原因を追究したりする作業の中で、しばしば、この「コミュニケーション・ギャップ」にぶつかるのです。

こちらが考えている完成された体系の中で、どう考えても「ありえないでしょう」と思うことがあります。舞台の例で分かりやすく言えば、音楽が高まり、緊張感が高まり、一瞬の沈黙が訪れた時、舞台上の全てが静止する瞬間がある。演出家から見れば、そこで「静止」以外の動きはありえない。ぴくりとも動いてはいけないはず。なのに、動いてしまう人がいる。

「どうしてそこで動くの!?」と演出家に怒鳴られても、本人は、どうしてか分からない。逆に、なぜ動いちゃいけないのか、ということが理解できない。舞台の流れの中では、その瞬間瞬間に、「こうしかありえない」という一瞬があります。その空気、その緊張感を、演出家と共有できない一群と、共有できる一群が、明確に分かれる瞬間がある。

どちらが正解、というのでもないのかもしれません。演出家は、「静止するべきだ」という。でも、動いてしまう人からすれば、「動くことによって逆にこういう効果がある」という主張もあるのかもしれない。感性の違い、と言ってしまえば簡単ですが、舞台というのは、一糸乱れずピタリと決まる瞬間、というのがすごく大事な形式。そういう「感性」のズレ、コンテキストの不一致、というのが、決定的に完成系を傷つけてしまうんです。

緊張感の高まっている場所だから余計に、「どうしてそこで動くの!?」という問いかけに対する答えと、それを説得するのに必要な、納得してもらうのに必要なエネルギーというのも非常に大きくなってくる。完全な鏡面を磨き上げる最後の瞬間が、一番エネルギーを必要とするように。「そうでなければダメなんだ!」と理解してもらうためのエネルギー。作品そのものの本質を突き詰める、非常に緻密で、かつ熱量の高い作業。仕上げの作業は、そういうギャップを埋めていく、高い緊張感を伴った作業の積み重ねです。

舞台以外でも、「そんなバカな」と思うことは多い。最近の仕事でも、「どうしてそんな仕様になってるんですか?」とこちらが呆れ果てる局面が増えてきました。完成系が近づくほど、目に付かなかった不具合が次々に現われてきます。その不具合をクリアしようとするたびに、コミュニケーションギャップに苦しみます。でも乗り越えないと、完成系はありえない。こちらが呆れているのと同じくらいに、先方も、「どうしてこんなことを今頃言ってくるの?」と呆れているんだろうし。舞台だって一緒。その場の空気を壊しているのは、私かもしれないんだから。自分の言っている表現が、一番正しいとは限らない。常に自省して進まなければ。