なんぼのもんだっての

週末は、ガレリア座の合宿。主要キャストがインフルエンザでバタバタ倒れており、最後の通し稽古は相変わらず締まらない。自分もセリフが抜けてしまったところがあり、折角の合宿の集中力を殺いでしまいました。なんとも申し訳ない限りです。周りがどうあれ、自分のパートはきっちりこなさないとなぁ。

1日目、オケとの合わせで、オルレンドルフの登場の歌を練習。先日のレッスンで改造した部分を極力再現しようと頑張ってみる。おおむね好評。「かなり整理されてきて、多少いい響きが出てきた感じ」とのこと。まだ「多少」なんだよねぇ。もうちょっとなんとかしないと。

1日目の夜、オケのバイオリニストのshu1氏が、録音していたオルレンドルフの登場の歌を聞かせてくれる。音程の不安定なところ、フレーズの勢いが失われているところ、聞き苦しいところがいっぱいある。まだまだだなぁ。shu1氏は、以前ガレリア座の公演で指揮をやったこともある方なんですが、非常に優れた耳を持っている。彼曰く。

「以前の歌い方が変わっていない部分と、先生にレッスンされて改善された部分が混ざり合っている感じ。どこかに、以前の自分に対する執着がある。もっと、レッスンされた方向性に自分の全部を持っていくくらいの思い切りがないと・・・」

さすがに鋭いなぁ。今回のプロジェクトでは、演出のY氏や指揮のN氏からも、「練習して、指摘して、注意して治ったことが、通し稽古になると全部元に戻ってしまう」という指摘があって、合宿後に、「形状記憶合金状態」だね、と困り顔で話していました。悪い、歪んだ形の形状記憶合金が、熱を加えるとまっすぐになるんだけど、ちょっと冷ますと、すぐまた歪んじゃう。困ったもんだ。

歪ませているのは、頑固な体。その体の形、その体の動かし方が、間違っているのだ、ということを認めようとしない頑固な頭。それほど執着して守ろうとする「自分」なんて、なんぼのもんだっていうのさ。舞台は、音楽は残酷です。歪んでいるものは、歪んでいる音しか出さない。歪んでいるものは、歪んだ醜い所作や、醜いセリフ回し、聞くに堪えない間の悪さなどを生み出すだけ。そして、観客は最高に残酷で、いじわるです。「あいつは歪んでいるな」というのを瞬時に見抜くし、それに対して、容赦のない嘲笑や、罵声を浴びせてきます。

「自分の」やり方、「自分の」方法論なんて、いくら振りかざしても、観客の前に立ってしまえば、何の意味も持ちません。追求するべきは「自分の」方法ではなくて、あるべき音、あるべき言葉、あるべき所作、あるべき空気。それだけ。「ここでこう動くのがオレのやり方だ!」なんて主張してみたって、その動きが、舞台の空気をぶち壊しにしているのであれば、「オレのやり方」に何の意味があるんだ。舞台の空気を作るために邪魔になるものを、どれだけ躊躇なく捨てられるか。自分を捨てる、というのは、本当に勇気のいること。でもそれを徹底的にやっていかなければ、恥をかくのは結局、自分自身なんです。わかっちゃいるんだけどなぁ。