フェニーチェ歌劇場「真珠採り」〜音楽の再発見〜

昨夜、オーチャードホールで上演された、フェニーチェ歌劇場の「真珠採り」を見てまいりました。今日はその感想を。

ビゼー作曲 『真珠採り』
指 揮 : ギョーム・トゥルニエール
演出・装置・衣装 : ピエール・ルイージ・ピッツィ
出 演 :
レイラ(S) アニック・マッシス
ナディール(T) 中島康晴
ズルガ(Br) ルカ・グラッシ
ヌーラバッド(Bs) ルイージ・デ・ドナート

という布陣でした。

以前、私がやった一人芝居の感想を書いた時に、「自分のやった演目を他の人がやるのを見ると、どうしても冷静になれない」という感想を書いたことがありました。「真珠採り」は、以前ガレリア座で上演し、自分も合唱団の一員として舞台に乗った演目。同じような気分がところどころで出てきたのは確か。

でも、自分がやった時には気が付かなかったことに気付かされることもある。オペラの場合、版が異なる、という要素や、演出、曲の解釈、という要素が絡みますから、「なるほど、そう解釈するのか」と驚かされたり。何より、歌を知っているから、いちいち字幕を見なくていいのがいいです。

今回のフェニーチェ歌劇場の演奏では、とにかく、「このオペラ、こんなに美しい曲だったんだ」というのを再認識させてもらいました。音圧のすごさ。歌によりそうオケの表現力。さらに、歌手もオケも、原典になるべく忠実に、曲の美しさを極力大切に表現しよう、と、このオペラに取り組んだのでは、と思わせる演奏でした。

「真珠採り」というオペラは、例の、「耳に残る君の歌声」以外の曲はほとんど演奏されない、かなりマイナーな演目だと思います。フェニーチェ歌劇場がこれを来日公演に持ってきた、というのは、ナディールをやった中島康晴さんの凱旋公演、という興行的な意味合いもあったかもしれませんが、このプロダクションによって、楽曲の美しさを再発掘することができた、という自信もあったのかもしれない。そう思わせるほどに、どの部分を切り取っても、実に美しい。

恥ずかしながら、自分達が演奏した時には、曲の美しさを十二分に堪能するところまで到達できなかった気がしています。むしろ、スリランカを舞台としたエキゾチシズムの中に、フランス音楽のどこか土俗的な、デーモニッシュな荒々しさのようなものを強く感じたし、意識もしました。3幕の血祭りのシーンなどは、ガレリア座の演奏は、サムソンとデリラの異端の舞曲のような、血に飢えた群衆の狂乱の歌、として演出され、演奏もされました。

でも、今回のフェニーチェの演奏では、その3幕の同じシーンが、非常に端正に、丁寧に演奏されていた。それがちょっと不満にもつながったのですが、この楽曲の美しさが際立ったようにも思います。全編に、エキゾチシズムや土臭さよりも、もっと華麗で典雅な絵巻物を見ているような演奏と演出でした。

歌い手では、やっぱり、ナディール役の中島さんの高音に驚嘆しました。カーテンコールではブーを浴びせていたお客様もいたし、厳しい批評もあるようですけど、私はすごいと思った。あの高音を、あれだけ柔らかい実声で歌いきるテノールがそうそういるもんか。ひどい話、同じ歌を、イタリア人の歌手が歌ったら、絶対ブーなんか出ないと思うぞ。なんで日本人の観客は、日本人の歌手に厳しいんだろう。「高音の輝かしさが消えた」なんていう人がいるみたいだけど、中島さんの高音の素晴らしさは、輝かしさにあるのじゃない、その柔らかさ、柔らかいのに音が飛ぶ音圧の高さにあるんだと思う。

私の席は3階席の上手側の端っこで、オケピットを真上から見下ろす場所だったんですが、例えば、ズルガの声やヌーラバットの声は、3階席の上までは届かない。でも中島さんの高音はバンバン飛んで来るんです。やっぱりすごい。確かに、中低音域の響きが散ってしまうとか、歌に一生懸命になってしまって芝居が散漫になっている、とか、一流のテノール歌手と比較すれば粗も目立つけど、29歳だぜぇ。素直にブラボーだよ。カンカンした金属的な高音しか出せないテノール歌手が多い日本にあって、あの高音は素晴らしい武器だと思う。

あとはレイラ役のアニック・マッシスさん。全然知らない方だったのですが、立ち姿と所作の美しさ、その声の圧力の強さに感服。多少無理やり高音を飛ばした箇所もなかったわけではないけど、アリアの繊細な美しさは素晴らしかった。

「耳に残る君の歌声」でのオケの表現力と歌に寄り添う技術、合唱とのアンサンブルで聞かせた低音の分厚さと柔らかさにも驚嘆。指揮者が若いせいか、ところどころで粗さも目立ったけれど、やっぱり一級品のオケですねぇ。全体に、若々しく、粗さも目立つのだけど、若いなりに真面目に、丁寧に楽曲に向かい合った演奏、という気がしました。「真珠採り」というオペラの楽曲の美しさを再発見した、素晴らしい演奏でした。