コミュニケーションと身体

最近、「振り込め詐欺」のニュースをTVで聞かない日はない、という感じですね。いつ我が身に降りかかるか、考えるとぞっとします。手口もどんどん巧妙になっていくようだし。でもこの詐欺、最近この日記でしばしば話題にする、「コミュニケーションと身体」というテーマから切り取ると、別の側面が見えてくるのじゃないか、と思っています。

狙われているのは一人暮らしのお年寄り。そこに、親しい親族を装う電話がかかってくる、という手口。これを、少し前に流行した、インターネット料金の振込みを求める葉書を送りつける、という詐欺の手口と比較すると、「電話」すなわち、「声」というコミュニケーション手段の特性が浮かび上がってくる気がするのです。

一人暮らしのお年寄り、というのは、コミュニケーションから隔離された状態を象徴しています。特に、身体を使ったコミュニケーションから隔離された状態にある。親族と同居していれば、触れたり、見たり、聞く、という、身体を直接使ったコミュニケーションがなんらかの形で発生する。二世帯住宅、といった形で、それらの干渉を排除しようとする動きもありますし、その究極の形が一人暮らしのお年寄りという生活パターンを生んでいるわけですが、それは結果として、「身体によるコミュニケーション」を排除した生活をもたらします。

もちろん、インターネットや、TVといった形で、片方向のコミュニケーションは成立する。ご近所づきあいの中で、表面的なコミュニケーションも成立するかもしれない。しかし、親族との「身体によるコミュニケーション」が途絶した状態にあるのは確か。そこに、「電話」すなわち、「声」という、身体から直接発せられたコミュニケーション手段により、親族がコンタクトしてきた。その状態自体が、お年寄りの精神状態を、ある意味、「与えられた情報を受容しやすい状態」に置くのかもしれません。一方的に送りつけられる葉書ではこうはいかない。「電話」=「声」という、生の身体から発せられた情報であり、それに対して、自分の身体を使って「返事をする」=「声を使う」ことにより、双方向の「身体を使ったコミュニケーション」が成り立つ。そのことの持つパワー、コミュニケーションの力。

言い換えるなら、「身体によるコミュニケーション」の飢餓状態にある一人暮らしのお年寄りにとって、突然かかってきた親族からの電話は、その飢餓状態を一気に解消してくれる極めてリアルな「身体=声による情報」なのです。電話が親族からのもの、と認識した時点で、その情報を受け止めたい、という態勢が、お年寄りの側に出来上がってしまうのではないか。「寂しい老人を狙った悪質な犯行」と言われる、「寂しい」という状態は、この、「身体によるコミュニケーション」の欠如状態を指している。

つまり、この新たな詐欺手口というのは、精神やコミュニケーションが、その「身体性」を失ってきつつある現代社会において、逆に、「身体によるコミュニケーション」=「電話」という手段を使うことの効力を皮肉な形で証明しているのではないか。そもそも、「身体によるコミュニケーション」というのは、それだけのパワーと呪力を持っていたのです。現代社会は、それを忘れてしまっているのではないだろうか。

今朝のTVのニュースで、振り込め詐欺の新たな手口を紹介するニュースに続いて、最近増加している少年犯罪についてのニュースも放送されていました。根っこは同じでは、という気がしています。「コミュニケーションの身体性」を取り戻すこと、子供に直接話しかけること。子供を抱きしめること。親と抱き合うこと。親と話し合うこと。そういった「身体性」を維持することによって、色んなゆがみを癒すことができるのじゃないかなぁ。