「装う」ということ

週末は出張で、しばらく日記の更新を休んでおりました。出張の話は別の機会として、今日は、週末のガレリア座の通し練の話。

いっぱい事故もあり、自分の不満もあり、まだまだ完成形には程遠い出来なのですが、一番の収穫は、オルレンドルフの衣装が完成して、自分がどういう姿で舞台上に乗るのか、というイメージが明確になったこと。ガレリア座の公演では、いつも、キャラクターのグループごとにテーマカラーが決まっていて、オルレンドルフのテーマカラーは白と青。さらに、ザクセン兵を際立たせるために、ザクセン兵士たちは全員、白や金髪のカツラをつけます。私のカツラも、ヘア担当のLarteのMさんがご用意くださったのですが、これがどうみてもオスカルヘアなんです。白と青の軍服姿に、金髪のロングヘア。口の悪い照明のTさんの言葉を借りれば、「オスカルになりそこなったオカマ」。

面白いのは、そうやって全員が、本番の衣装をつけると、舞台全体のテンションが微妙に上がることです。通し稽古終了後、演出のY氏が、「馬子にも衣装だねぇ」とつぶやいていましたが、実際、今までの稽古ではなかなか出てこなかった緊張感や、テンションの高さが、衣装のおかげで維持できる、ということが結構あるんです。

以前、サントリーホールでのガラ・コンサートでご一緒した菊池美奈さんが、「ガレリア座のみんなが、日常の練習のときから本番衣装を着けているのでびっくりした」という感想を、ご自分のHPでお書きになっていました。プロの目から見ると、練習から衣装をつけている我々のやり方、というのは結構異質に映るんでしょう。でも、素人の我々が、舞台という異空間を作り上げようとするときに、衣装で「装う」ということは、非常に強力な武器なんです。自分以外のものに装うことで、自分以外のものを演じるエネルギーが生まれる。

本当は、もともときっちりした基礎力があって、表現力があって、その力で異世界を自分で作り上げてしまうパワーがあれば、衣装の力なんか借りなくても、舞台を作り上げることができる。そういう基礎力・表現力のあるプロの方々であれば、日常練習から、「衣装を着けて舞台に立って、別人になっている自分」をきっちり作ることができるはず。衣装の力を借りなければいけない、というのは、自分の力不足を露呈していることなので、本当はお恥ずかしい話なんですがね。

装う、ということは、ギリシア演劇の役者がかぶった仮面から始まって、日常と、舞台という異世界を断絶させる最大の武器なんですね。でも、それはそれで自分自身をコントロールできなくなったり、衣装の扱いに必死になってしまって、中身が伴わない、といった現象を生みます。昔読んだSFで、「カエアンの聖衣」という本がありました。一見ごく普通のスーツなのだけど、それ自体が意思を持って、着用した人物のアイデンティティを変容させてしまう、という話。私の衣装やメイクは相当エキセントリックですから、この衣装とメイクに負けないオーラを自分自身から出さねばなりません。なんとか、オカマのオスカルから、老練なザクセン軍人に見せるようにしなければ。

・・・それにしても、ガレリア座の過去の公演でも、私の衣装って、白を基調にしたド派手な衣装が多いんだよなぁ。なんでこんなカッコばっかりさせられるんだ。どうもスタッフにもてあそばれている気がする。ううむ。