ベルギー王立歌劇場管弦楽団来日演奏会〜祝祭の中の死〜

昨日、急にチケットが手に入ることになり、ガレリア座のメンバーたちと一緒に、初台のオペラシティに行ってまいりました。大野和士さんの凱旋コンサートです。
 
指揮:大野和士
ソプラノ:エレーヌ・ベルナルディ
ベルギー王立歌劇場管弦楽団

[曲目]
フィリップ・ブースマンス:ゲオルク・トラークルの詩による歌曲集
マーラー交響曲第5番 嬰ハ短調

という演奏会でした。
 
大野さんとガレリア座の縁はそれなりに深く、1999年にガレリア座が上演した「仮面舞踏会」のGP会場に、いきなり大野さんが現われ、15分ほど、指導していただいたことがあります。決して権威的ではない、物腰柔らかな指導ながら、一瞬のタクトと短く鋭いメッセージに、一つ一つの音の重みが瞬時に変貌し、演奏の厚みが突然増す。オケ自体が別のオケに生まれ変わってしまったような、めくるめく15分間。いまでも、ガレリア座の団員の語り草になっている、至福の時間でした。

その大野さんが、ベルギー王立歌劇場管弦楽団(モネ劇場オケ)を率いて凱旋来日される、というのは、ガレリア座でも今年のビッグニュースの1つ。大挙して押しかけたのですが、本当に、期待にそぐわぬ演奏会でした。

モネ劇場来日公演のホームページに、大野さんが寄せているメッセージを見ると、今回演奏されたマーラーの5番について、地元新聞では、「モネオーケストラとOnoのコンビは、たんに良いというだけでなく、毎回、何かしら、本質的なことを語ってくれる。」(デ・モルヘン紙)と絶賛されているそうです。私は、クラシックには詳しくなく、特に管弦楽についてはチンプンカンプン。マーラーの5番、と聞いても、第4楽章のアダージョが素晴らしく耽美に流れた「ベニスに死す」のあの海辺のラストシーンを知っているくらいで、他の楽章を聞くのは全く初めて。でも、そんな私にも、その「何かしら、本質的なこと」というのが、少しだけ垣間見えた気のする演奏会でした。

演奏会の冒頭、大野さんご自身がマイクを持ってご登場。日本の聴衆にはあまり馴染みのない、モネ劇場の座付き作曲家、フィリップ・ブースマンスさんの曲を取り上げることについて説明される。マーラーの曲の前に、短い歌曲が演奏される、というのは、以前この日記でも書いた、新日本フィルにアルミンクが就任したばかりの演奏会で、マーラーの3番を演奏されたときと同じ構造。あの時、アルミンクさんが選んだのは、モンテヴェルディマドリガル「告げるべきか、沈黙すべきか」でした。就任にあたって、「自分はこの東京で、色彩豊かな音楽を『告げていこう』と思う」という決意表明のような構成だったように思います。今回取り上げられたブースマンスさんの曲は、「祝祭の中の死」という、マーラーの5番のテーマを強調するために置かれた、前奏曲のような感じがしました。

初めて聞いたマーラーの5番でしたが、葬送行進曲から始まる冒頭から、「死」が色濃く影を落としているように思いました。それは、第二楽章、第三楽章の祝祭的な響きの合間にも、常に影を落とし続ける。どこか分裂症気味に、その「死」を頭から振り払おうとあがくような。死ぬのが怖くて、酒場で飲んだくれて大騒ぎしながらも、時々背後に立っている死神の影におびえるような、そんな不安。

その不安を越えて、第四楽章に至った時、その「死」=「喪失」は既に想像の対象ではなく、厳然と目の前に、失われてしまった愛するもの、美しいものとして実感される。その実感はあんまり切実で、失われてしまった記憶はあんまり美しくて、胸が苦しくてたまらない。第五楽章の享楽的な響きは、第四楽章のそんな胸苦しいまでに美しい思い出を引きずっているが故に、なにかカラカラと空虚に響く。つい最近この日記に書いた、「圧倒的な情報量の中に生まれる虚しさ」のような。

ブースマンスさんの曲も、非常に色彩的、祝祭的な響きがするのですが、その奥に深い深い「死」の影が隠れている。舞台裏の遠くから響くトランペットの音は、祝祭を告げる音であると同時に、舞台裏に常に潜んでいる「死」の長い影のようにも聞こえる。

他の方が振ったマーラーの5番を知らないので、大野さんの指揮について何か批評めいたことを書くことはできません。ただ、素人の私なりに、「何かしら、本質的なこと」として捉えることができたのは、「祝祭の中の死」というキーワードでした。

弦と弓がこすれる音にまで緊張感を持続させた、濃密な演奏。ブースマンスさんの曲を聞いて、女房は、「フランス的な響きのする曲だし、フランス的な響きの得意なオケなのかもね」と言っていました。公用語にフランス語を含む土地柄もあるんでしょうか。単なるドイツ音楽の響きではない、色彩感のある響きを感じたそうです。

第二楽章のラストで、客席で鳴ったアラーム音や、アンコールのアダージョのラスト、長い長いディミネンドの緊張しきった空気の中で、椅子の音をガタピシ言わせて退場していったおばさんたちなど、観客の側のマナーに雰囲気を壊されそうになった場面がありましたけれど、舞台上の緊張感は最後の一瞬まで途切れず、本当に緊密な時間を過ごすことができました。

終演後、長いサイン待ちの列が終わった後、ガレリア座の団員たちに、大野さんご自身が歩み寄ってこられました。主宰のY氏が、「今度、カールマンの『モンマルトルのすみれ』をやるんです」と言ったら、博学の大野さんが「知らないですねぇ」とおっしゃる。Y氏が勝ち誇ったように「ガレリア座の上演ビデオを資料としてお送りしましょう」と言うと、「勉強します」とのこと。どこまでも謙虚で、どこまでも気さくな方です。うちの娘も大野さんに抱き上げてもらって大喜び。大野さんに抱っこされている娘の写真は、我が家の家宝にします。素晴らしい演奏を、本当にありがとうございました。

以前、この日記にも書いた記憶があるのですが、小さな子どもを持つと、子どもの持つ弾けるような生命力を感じるおかげで、逆に、「死」を強烈に意識することがあります。子どもは生命力に充ちているのですけど、突然襲ってくる「死」に対してとても無防備です。全ての子ども達を、突然やってくる「死」からお守りくださいますように。この小さく儚い命を、ずっとお守りくださいますように。アンコールのアダージョに思わず涙しながら、自然とそんなことを思いました。音楽の力って、本当にすごい。