「ぼくんち」〜フェリーニの映画との共通性〜

阪本順治という監督は、「どついたるねん」を見ています。これは本当にすごい映画でした。まっすぐなエンターテイメント。それもコテコテの関西系。以降の作品は残念ながらフォローしていなかったのですが、常に、関西系のやきそばソースの匂いのする作品を作りつづけている監督、という認識がありました。

その監督が、あのサイバラの「ぼくんち」を映画化する、というので、これは見なければ、とずっと思っていたのです。先日、WoWWoWで放送されたのを録画して、やっと見ることができました。

ネット上で見ると、賛否両論あって、どっちかというと、「つまらん映画」という評価が多いようです。私は結構、どんな映画でも感動しちゃうタイプで、「つまらん」という評価を下すことって滅多にないんですよね。そういう意味では、大甘の映画ファンなんです。そりゃ、「つまらん映画だなぁ」と思うこともたまにはありますけどね。あれとか、これとか・・・やめよう。

でも、この「ぼくんち」、私はすごく面白く見ました。面白いなぁ、と思った要因をいくつか。

多くの人が「つまらん」とおっしゃっている原因の一つが、この映画の舞台になる「水平島」という世界のあまりの時代錯誤さ、あまりの汚らしさ、貧乏臭さ、にあるようなのですが、私はそれがすごく面白かったです。確かに、現代では考えられない、ありえない世界。でも、それは確信犯。冒頭で、鳳蘭さんが、船の上で、携帯電話を掲げながら、「全然(電波)入らんなぁ」と呟くシーンで、既にそれは提示されている。携帯に象徴される現代社会から隔絶された別世界なんだ、ということ。

どこまでも汚く、どこまでも貧乏臭く、そのくせ、どこか温かい。そういう一つの空想世界を、細かいディテールに至るまできっちり描きこんでいる。このこだわり。こういうこだわりのある映画が好き。以前もこの日記に書いたけど、予算だの撮影日程だの色んな制約の中で、こだわりを失って中途半端な映画を作る作家がどれほど多いことか。いいなぁ、水平島。

さらに面白いなぁ、と思ったのは、出てくる役者の「顔」です。元々関西のコテコテ系エンターテイメントというのは、まともな二枚目とか、整った顔立ちの役者さんを徹底的に排除することで成り立っています。吉本系の役者さんにまともな顔した人はいない。阪本監督が、藤山直美という、これまた異様な顔を持つ役者さんを使って、そのものずばり、「顔」という映画を撮っている、というのは象徴的。阪本監督は確かに、役者の「顔」に非常にこだわる監督なんだと思います。

子役のオーディションで、「一番可愛くない顔の子役を選んだ」という監督のコメントを読んだことがありますが、端役の役者さんも含めて、二枚目役者さんは一人もいない。美人女優の範疇に入るであろう、鳳蘭観月ありさの親子だって、決して美人としては描かれていません。鳳蘭の顔は大きな道具をあえて強調するようなメイクで、老醜を必死に覆い隠そうとするグロテスクさすら感じる。唯一美しい観月ありさの顔も、ど派手なピンサロメイクに汚される。典型的な二枚目役者の真木蔵人も、冒頭から血まみれに顔を汚し、常に顔を歪めて画面に登場する。

そこで、はた、と気づいた。この「顔」へのこだわり。それも、美しくない、まともじゃない「顔」へのこだわりって、つい先日日記に書いた、フェリーニのこだわりと共通じゃないか。

フェリーニ映画との共通性、というキーワードでこの映画を見ると、色んなシーンや、色んなセリフが急にクリアに見えてくる。役者が呟く哲学的なセリフは、サイバラの原作の哲学性を反映しながらも、むしろ、フェリーニの映画の人物たちの、支離滅裂なようでどこかに深い人生哲学を感じさせる無数のモノローグに重なる。そして、まさに「猥雑」を具象化したような「水平島」の造型。

「この島のこと、憎んで憎んで、憎みきれ」。徹底的な憎悪の対象となる「水平島」は、貧乏で、薄汚くて、猥雑だけれど、でも温かい。中にいれば自分が腐ってしまうかもしれないけど、でも妙に居心地がいい。それはまさに、母性の象徴なのです。映画のあらゆる所で、母親、というキーワードが生きている。子供を捨てる母。母親になろうとする女。男に走る母。愛を求めて廃墟の中で踊る観月ありさの姿の、なんと神々しくも美しいこと。

フェリーニが、猥雑の中に見出した美しさ。「ぼくんち」には、それに共通する、虚構としての猥雑の中で描かれる真実がある。虚構としての貧乏臭さと、コテコテの関西ノリの中に浮かび上がる、母性の温かさ、美しさ。そして、人生の必然としての、その母性からの別れ。

現代という時代は、こういう真っ直ぐな母性を描くために、「水平島」という虚構を作り上げなければならない。社会が豊かになり、いわゆる「貧乏」が徹底して排除された、その結果失われてしまった濃密な人間関係。それは、以前この日記にも書いたように、豊かな現代が、戦時中を一つのユートピアとして描いた、千流螺旋組の「灰神楽」と同じ構図を思わせます。

私にとっては、全然「つまらなくない」、大きな収穫になった映画でした。エンターテイメント映画、と思って見ちゃうと、「つまらない」と思うかもなぁ。かなりまっすぐな文芸映画だと思うぞ。しかし、観月ありさも、鳳蘭も、ほんとにでかい女だなぁ。